2017年10月18日水曜日

ジャッジという名の論理の試し切り

例えば、そのことに専門外の人が
「そんなものは誰でもできる。故に報酬が少ないのだ」と言うとします。

机上、経済原理ではまさにその通りです。

需要の多いところに、貴重な技術や供給があってこそ、報酬は成立する。
これは気持ちの問題ではなく、公式みたいなものです。


しかしそんなことを言えば当然「なんだと!?」とか「じゃあ、おまえがやってみろ」という反発が出る訳です。当たり前です。

もっとも、それをできる人、やってみたい人は、そんな論理正論の試し斬りみないなことはハナから言わないわけで。

中身を知らない、想像力が及ばない、やる気がないからこそ「誰でもできる」と言っちゃうのです。

人はそれぞれ天命に従って生きています。

天命でないものを仮にやれたとしても、そもそも縁もないし、やってみたところで責任は持てない訳です。
だから天命で生きていることが分かってる人は、「誰でもやれる」とも「じゃあやってみろ」とも、どっちも言わない。


「自分にしかできない」ことをやってる人は、実はそんなに多くない。

誰でもできることを、自分もやってるに過ぎない。


誰でもできることを、天命…まあ天命という言葉がふさわしくないとしたら、そこに縁があって、いや縁という概念すらふさわしくないなら、好き嫌いや得意不得意で、やったりやらなかったりして、世の中の必要は満たされている。

「誰でもできること」は、机上ではそうかもしれないけれども、現実の実際には、誰でもできるわけではないのです。

どんな生業も。



「誰でもできること」をやって、高い報酬を得ている人はたくさんいます。

一方では本当に「その人にしかできない」ことをやっていて、本当に貴重で、需要もそこそこある分野であっても、十分な報酬を得られていない人達も結構いますよ。

僕の知る、ある分野の伝統工芸品は、その職人の手わざは世の中に当たり前に広く知られていて、需要もそれなりにあり、仕事は忙しい。

けれどもその報酬を聞いたら、その低さにきっとびっくりすると思います。

「これだけ貴重でみんなが欲しがっているものの技術を持ちながら、たったこれだけ」

それでもその人はその仕事をやめるつもりはないし(いや、心のうちは分かりませんが)、報酬が少ないからといって、その技術職が世の中から消える訳でもない。

需要と供給のバランスを超えた応力が、世の中の現実にはたくさん働いています。
目に見えるところでは、機械化であることもあるかもしれないし、その国の経済力であるかもしれないけれど、でももっともっと複雑に絡んでいる。

「気持ち」「感情」という、まあ、論理の試し切りをするような人からすれば、実に得体の知れないものもその一つです。

一旦、気持ちや感情が動いてしまえば、需給のバランスを崩してしまっても、生き残る、あるいは世の中から喝采を受ける仕事はたくさんあります。

自費をつぎ込んで活躍するモータースポーツチーム、音楽家、宇宙開発者……。

そこに大きな報酬がくっついてくるかどうかと、「誰でもできるかどうか」は、現実には全く別の問題なのです。

それでも、好きでやれるなら、楽しんでやれるなら、いいじゃない。

共感したなら、その仕事の人に「もっと報酬あげようよ」って言えばいい。

ジャッジは、最終的にはその人に返ってくるのですから。




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