2017年2月25日土曜日

闘う?闘わない?

現代の芸術家が「闘う」って言うのはなんだろうな。
何と「闘って」いるのだろう。

一人二人じゃない。
「私は今まで芸術を以て闘ってまいりました」と言う。

分からない僕は、たぶん闘ってないんだろうな。

例えば……



僕はこの絵に「老兵の帰還」という題名をつけた。
ぱっと見、何が描いてあるのか分からない人もいるかもしれない。
本当は見る人の自由。

でも、僕の信条として「見たままです」と突き放すようなことはしないので
ヒントになるような、あるいは取っ掛かりになるような題名とコンセプトは文章で残しておくことにしている。

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「老兵の帰還」(An old soldier's return)

「晴れた野の向こうに
懐かしい我が家と
愛する妻と猫と犬たち
私は帰る」

Over the earth
green and calm
my sweet home
lovely wife
my little life
kitten and dog
I’m by God

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日本語と英語ではちょっといろいろ違う。
英語がへんなのはご容赦。


老兵というからには、戦いをしてきたのだろうか。
していないかもしれない。
どこかで道草を食っていただけかもしれない。

奥さんらしき人と抱擁しているのはなんとなく分かると思う。
きっと長い旅から帰ってきたのかもしれない。
いや、これから長い旅に出るのかもしれない。

赤ちゃんが見えるだろうか。
だとしたら、この夫婦の子なのだろうか。

そうすると、老兵というからには年の差カップル?

いや、孫かもしれない。

犬もいるんだけど。
猫もかな。
もちろん分からなくても全然構わない。

二人の上の方に、もう一人の顔が見えるかなあ。
いえ、見えなくてもいい。

老兵はどこから帰ってきたのだろう。
それともどこへ帰るのだろう。

なんなら「老兵」という言葉を一度剥ぎ取ってしまってもいい。
誰かが、帰ってきたか、帰るんだ。

でも、ここに描かれているのは、若い魂ではないかもしれない。
そこらへんはたぶん、この絵を見る時の取っ掛かりのヒントとなるだろうな。


この絵は、決められた物語や何かを訴えるために存在するのではない。
僕の主張を表現しているのではない。

この絵は、見ているあなたの魂の姿や夢の残像の一部分を写し取っていると思って見てくれたらいいと思う。

僕の作品は大分殆どそれ系。

だから、作者の心情がどうだとか、美がどうだとか、社会がどうとか、平和がどうとか、世界情勢がどうとか、平等がとか自由がとか、そんなこととは一切関係がないよ。

写真もコンピュータも絵描きも漫画家も描いたことのない、あなたの心の中の残像なのです。

闘いからは生まれない。
怒りからは生まれない。

表現は自然の法則、神の意志によって僕の目と手を通してここに存在する。
それだけ。

いつも「カミサマ」と話してるから。
この絵は、観ているあなたのもの。
僕の闘いの道具じゃない。

だから僕は芸術を以て何かとは闘いません。

この手の話は、これから作品が生まれるたび、しつこくすると思います。
僕自身も忘れないようにという思いも込めて。





2017年2月23日木曜日

無我と自我を行き来する

4〜5日前に、ちょっと腰を痛めました。
ギックリ腰?

良くなりつつはあるのですが、やはりいろいろ作業がしづらい。
筋力つけなくちゃです。






これは今進行中の中の一枚。一部分。

描き始めは、無我、無計画の状態で始めます。

何が出てくるか分かりません。

何かを描こうと意識して描いていると、必ず意図が入る(当たり前)。
意図が入ると、どうしてもウケようとか、上手に描こうとか、邪念が入ります。


ただ、全くのデタラメでもダメなんです。
計画を練って描いてもランダムでもダメ。
事前にある程度、世界観というか、取材でストックしている景色や色がある。
心境とかも。

でも意識はしない。無意識。無我。
そこがちょっとむずかしい。


あくまでも「無我」で描いているうちに、ある時突然
「あ!」という発見がある。

そしてその時初めて「自我」の中の記憶を手繰り寄せる。

そして一気に完成へ。

早い時は1週間もかからないですが、いつまで経っても見えてこない時は、半年以上もぐだぐだやっている。


この行程をうまくコントロールするための「無我」を導き出すというのが何年経っても難しい。
無為であればこそ無我でいられるのに、有為的に無我を導くとは。
でも、そうすることで、できた作品には必ず魂が入るので
そのためには無我を導き出す自我を鍛えなくてはならないのです。

まあ、リーディングセッションの時も、有為的にシャマンモードを呼び起こして、結果無我の状態でやってたから、似てはいるんですが。

「手放す」という独特の意識が必要になってくる。

何十年経っても修行。


2017年2月21日火曜日

無念と無我

かねてより「無念」という言葉の使い方に違和感を感じているのです。

無念とは、余計な念がないこと。つまり無我の境地。
素晴らしい境地。

なのにどうして残念至極を表現する言葉になったのかその経緯と理由が知りたい。


無我の境地で思い出したけど、横山大観の「無我」も違和感がある。

作品そのものにではない。題名。


初めて美術だったか倫理社会の教科書に載ってるのを見た時から第一印象で「おかしい」と感じていた。

子供の頃、無我どころか全我、この世界は自分のために存在するのだと本気で信じていたから。
いや、本気もなにもない。子供は自分が見る世界が全てだから。
自分以外に自分を感じる人間がいるなんて想像もつかないわけで。

だからこの有名な絵が「無我」を表しているとは到底思えなかった。

どちらかと言えば

「忘我」

かな。

ずいぶんとぼんやりしたこどもだこと。



「無我」というのは「自我」を認識できて初めて分かる。
成長して自我を強く認識するようになると同時に
他者にも自我が存在することに気がつく。

そうすると、自分から見た他人、他人から見た自分を対比させて行動する。
社会的行動。

自分の行動に自分の利益以上の規範が生まれる。
それはとても有意義であると同時に、制約も生まれる。
それは自我あるが故の行動。

つまり、自我の増大を抑えて行動することこそ、自我の成せる技なり。


だから時には敢えて自我を捨て去らなければならないことがある。
どんな時?

創造とか、創造とか、創造とか。

こう見られたいとか、こう描いてみたいとか。

とてもよく分かります大観先生。


自我故にくっついてくるものを捨て去るために自我そのものを捨てることを
改めてやらなくてはならない。

捨て去るというより、解脱。
断捨離。

強く自我を意識しつつ、そこから解脱できて初めて得られる境地。

で、無我に至るには無想無念が必要になる。

無双無念もこれまた無自覚からは決して到達できない。

強い自我、強い自覚があって初めて、その対極である無念に到達できるわけです。

ん?

ってことは

もしかして

残念至極、かくなる上は無念無想の境地に至わざるを得ず

ってことかな?


ともかくも、芸術は無我の境地でないとダメなことは確かです。

ウケを狙ったりしたものにロクなもんはない。
無我の境地、無念の境地で描いたものはどんなものでも素晴らしい。

そんな境地に自分を置くのに、今日も苦労しています。

2017年2月9日木曜日

里の夕



里の夕 Evening on Village
227x158(SM) / Oil on Canvas /2017

山に囲まれた
畑や田んぼがきらきらと
村の灯りとシルエット

僕の絵は必ず具体的な場所のモデルがあります。
でも、複数です。

あなたが実際に見たことがある場所の夕焼け、日暮れ。
その記憶や印象がこの絵を完成させてくれるでしょう。








2017年2月2日木曜日

ミニギャラリーへどうぞ


試験的ですが、都内にミニギャラリーを開設することになりました。
今まで作品の倉庫として借りていた場所を少しだけ整理して、作品をゆっくり見られるスペースを作りました。





狭いスペースではありますが、小作品を中心に常時40点ほどを収蔵しております。
今までのネットギャラリーや水晶市場サイト、FaceBookで見た事がある作品の実物をじっくりと見ることができます。


場所は東京都中野区新井です。
JR中央線中野駅下車徒歩約12〜3分のところにある、マンションの一室です。

ご案内できるのは、基本的に平日11時〜17時となります。
完全予約制になっています。

閲覧ご希望の方は、メールまたはお電話にてご希望の日時をお知らせください。
当日は中野駅までクルマでお迎えに上がります。


ギャラリー閲覧受付電話
(電話受付時間:10時〜20時)



2017年2月1日水曜日

子供こそ写実的であれ

偉い画家さん達はみんな言う。
「子供の絵が一番素晴らしい」
確かにそりゃ素晴らしい。

ピカソも岡本太郎もその辺の絵描きも、僕の最初の絵の師匠も言っていた。
「子供の絵には本当に教えられることが多い」と。
僕の師匠は、子どもたちに絵を教えることに人生の後半を捧げた人物だ。

でもね、大人が子供の絵を褒める時には、それが大人の身勝手な鑑賞物を見ている視点だということを忘れてはいけない。

それとね。

小学生の絵で、素晴らしいと賞賛されている絵の殆どは、先生が少しばかり手を入れたり、かなり濃い指導が入っていたりすることが多い。

つまり、我々が普段「素晴らしい」と賞賛する絵は、自分の子供が描いた絵を除けば、たいてい、「大人の目で見た素晴らしい」に過ぎないのだ。

そしてだ。

子供が自分が描いた子供らしい絵に満足し、あぐらをかいていると、中学生ぐらいになって観察眼が写実に目覚めた時にはもう手遅れになっちゃう。

やがて子供は思春期になる。
思春期になると観察眼が成長して、写実的にものを描きたいという欲求が強くなる。けれども技術がちっとも追いつかないというか、それまで子供らしい絵で良しとされてきたから、突然目覚めた自分の観察眼に、自分の技量が全く釣り合わないという瞬間が、突然訪れる。

昨日まであんなに褒められていたのに、今日描いた絵は自分でも気に入らないし、先生にも評価されない。
そうして、絵がニガテになり、絵とは縁のない人生を送る大人の一丁上がり。

これは大人の責任。

しかし写実へのアプローチは、今の義務教育では体系づけては殆どやってない。
ただ描かせ、それが中学校の美術では、できた人間だけ評価される。
かなり不公平な状況だ。

音楽は、子供の頃、まだ音楽のおの字も分からないうちから、音階や基礎練習からみっちりやらせ、出来ないと火が付いたように怒るのに、絵は幼児が描いた抽象画みたいなものを手放しで褒めそやし、手遅れになってから写実的であれと手のひらを返される。

僕は逆じゃないかと思う。

音楽というのは、一定の楽譜を読み込む頭脳の発達と、指を正確に動かす筋肉の発達が必要だ。
だから中学生ぐらいになってから初めてピアノやギターを始めても、大人になって立派なプロになっている人はたくさんいるのだ。

絵は違う。
僕の経験では、写実へのアプローチは、早ければ早いほどいい。
遅くとも小学校4〜5年生ぐらいには始める必要がある。
目の前にある物や人物を、なるべく正確に描写する訓練だ。

邪心なく子供らしい絵を描いているうちに、デッサンの基本を少しずつ教えてあげる。

ここで間違ってはいけないのは、正確に描けるという結果を求めるのではなく、見たままをより正確に描くための技法を学ぶということ。

そうすることで、中学生になっても、描きたいように描けるようになる。
というよりも、目の前のものの本質を見極める力が身につく。
ここが一番大切なんだけど、写実をある程度マスターしないと、ものや人が持つ本質には迫ることができない。
その本質に迫るという力は、人生のいろんなところで役に立つ。
大人になり、絵を描かなくなっても、文化の骨格を自分の中に持つことが出来るようになる。


ついでに言えば、中学生に画用紙と水彩絵の具を与えて「さあ描け」というのは残酷だ。
中学生ぐらいになったら、ちゃんとしたキャンバスと油彩絵具を与えてやるべきだ。
さもなくば、美濃紙に岩絵具、はたまたケント紙にGペン。

自分が描いた絵が、一生残るぐらいのお膳立てをしてやらずに、すぐに破ける、丸まってはひび割れちゃう4つ切り画用紙で、何が美術だ。


素晴らしい抽象画を描く人は、デッサンを早くからやっている。

ピカソは、子供の頃から厳格なデッサンをお父さんに仕込まれて、子供らしい絵が描けなかったという。それが原因で、あんな絵を描くようになったという説もある。

それは違う。

ピカソのデッサンは、世で言われるほどうまいわけではない。が、作品は、どれもどんな絵も彫刻も、デッサンの骨格が恐ろしくしっかりしている。
ピカソの絵は、超越した巧さを持っているのだ。
名作と駄作の差が激しいなんても言われるけれど、とんでもない。
描き殴りのような絵でも巧い上に、エネルギーの総量が、同時代の他の作家とは桁違いだ。
ピカソの絵のオーラは、写真では絶対に伝わらない。
実物でなければ分からない。

写実をやったからこそ、ものの表面的形態を越えて、あのエネルギーが生まれたのだ。
あれは純粋な子供には絶対に描けない。
完全に大人の絵なのだ。
だから芸術になった。

子供の感性は素晴らしい。
それが故に、子供の感性を大人になっても忘れず、そこにさらに大人の技巧や視点、技法をきちんと加味することができて初めて、芸術は生まれる。









月と金星

今の季節の夕方、月と金星が見かけ上接近していて
ちょっとトルコの国旗のようになっています。

写真は散歩の途上、iPhoneで撮ったので何がなんだか分からなくなってますが
肉眼ではかなりはっきりと確認することができます。

夕方、もし晴れていたら、南西の空を見上げてみてください。