2016年12月28日水曜日

象の親子


象の親子 Mother and baby elephant
333x333(S3) / Oil on canvas / 2016

お花畑で
たわむれつたわむれつたわむれつ
宝物



前回のブログの絵は、最終的にこうなりました。
魂が見えてきたので、完成です。

6割ぐらいまでは、今年の6月ぐらいに出来ていたのですが、どうしても気に入らなくて、途中休み休み、手直ししながら年の暮れまでかかってしまいました。

象の親がどれで子はどれだ?いや、そもそも象なんかいるのか?というような感じを受けるかもしれませんが、象の親子です。

でも、見る人によっては象ではなく違う動物に見えるかも。いや、人かも。
生き物ですらないかもしれません。

それでいいんです。

これは魂です。愛です。



2016年12月21日水曜日

風邪ひき絵描きは一回休み

先週の水曜日から風邪で体調不良のまま過ごしていました。

インフルエンザではなかったけれど
また熱もそんなに上がらなかったのだけど
とにかく頭痛、鼻水、咳で頭と体が言うことを利かず
制作がだいぶ遅れがちに。

今日(火曜)になって随分マシにはなってきました。

去年と今年、また風邪を時々ひくようになってきました。
断食してリセットすると引かなくなるんですけどね。


先月から大小おりまぜて5作品ぐらい同時進行しています。

そのうちの一枚はこんな感じ。S3の小品。


かなり難しい問題に直面しており、テーマ性と抽象性と質感の折り合いというか
バランスに苦しんでいます。

描きたいものは山ほどあるのですが、テーマが前に出過ぎてしまうと
意図が出てきてしまう。
かと言って意図を消し去ろうとすると、質感ばかりにこだわって進まなくなる。

もう完全に禅問答の世界なんですが、風邪はその答えのための瞑想を邪魔します。
そういう時は無理に絵筆は動かさないようにはしているのですが。

完全体の時のみ、魂は見えてくる。

うーん、もう少し置くとしますか。

2016年12月19日月曜日

言葉はとても大切で重大なものである



私たちは普段、何気なく言葉を使っている。

けれども言葉はとても大切で重大なものである。

何気なく言い放った言葉だから世界を変える力なんてないと思うのはとても危険な考え方だ。
どんな言葉でも人の思いも言動も住む世界も一変させてしまう。
だから言葉は大切に扱わなければならない。


ある日突然、自分が発した「あの時の言葉」が成就する。
思いもかけないようなプロセスで。
気付いた時にはもう結果が出ている。

そして自分が言い放った言葉に感謝したり、後悔したりする。

言葉の力には人称が効かない。
言葉には嘘が利かない。

全てが自分のこととして帰ってくる。
そして言葉にしたことは必ず起きる。
言葉を発した瞬間にそれは成就に向かってセットされる。

あとはカウントダウンがあるだけ。
プロセスも選べない。結果を待つだけ。
祈りも呪いも祝いも同じ。
言葉の力は善悪を判断しない。

発した言葉のカウントダウンを止める方法はあまり多くはない。

言葉はとても大切で重大なものである。

2016年12月15日木曜日

旋律


ぼくの絵にとっては旋律(線)が重要な要素なのではない。
それでも旋律は最終的には必要で、ただそれは結果であって先にあるものではない。
先にあって大切なのは魂のエネルギー。
大自然と生きるものへの愛。
そしてそこに肉付きされてゆく色と陽陰。

2016年12月14日水曜日

憑依が創作を生む

10代の頃の静物画

まだまだ若造だった頃、僕が自分の将来の方向を決めるのに、3つの選択肢がありました。
それは音楽、絵画、デザインの3つです。

どれも子供の頃から真剣に取り組んできたことであり、どれを選択しても悔いはないと思っていました。

最終的に20代〜30代はデザインを選び、そして今は絵を描いているという訳です。

自分の創作を後から振り返った時に、必ず「あ、これはなかなかの傑作だな」とか、逆に「これは駄作だなあ」「あ、もうこれは才能ないなあ」というような感想を抱きます。

ここまではよくある自己評価、反省です。

で、その中には「これは一体誰がどうやって作ったんだ?」というような、まるで他人事のような、手放しの絶賛がたまにあったりするのです。

何ヶ月も何年も経つと、本当にどうやって作ったのか思い出せないものもあります。

しかし、プロセスは説明できても、本当の意味で「なぜそうなったのか」分からないものがある。

そういう作品ほど、感心するほど素晴らしいのです。
もしかして自分が描いたのではないのではないか?と思うほど。

自分に何かが憑依して描かせてるとしか思えないほど、創作時の記憶がない。


で、だいぶ後から気づいた事なのですが、この「憑依現象」は絵画が一番多く、デザインが一番少ないのです。

デザインは頼まれて作ることが多いので理詰めや制約が多いということもありますが、自分自身で省みるにデザイン特有の「一般ウケ」を意識したものほど憑依は起きてないように思います。

実際、憑依なんかには頼れないルーチンがデザインワークにはたくさんあります。
理論や経験値や流行というものを常に身につけておかないとデザイナーは務まりません。

音楽はシロウトの域を超えてはいませんが、それでも真剣に演奏したり作曲していた頃は憑依は時々ありました。しかしそれはもうオーディエンス不在を前提にしたものであり、売れたいとかそういうウケを狙うとロクなものはできませんでした。

そういう過去の録音を聴き直しても、「やり直したい」と思うものはあっても「時を超えて良い」と自信を持って言えるものは殆ど無いようにも思います。

やはり自由きままに作った方が面白い音が出来上がっています。


絵は、ハッとするような作品があるので、正直嬉しいです。


ほぼ常に誰の目も気にせずに「自分の世界をたった一人で表現する」のですから、憑依も起きやすいのでしょう。

なんでこんな題材を選べたのか、過去の自分スゴイなあとか、この陰影の感じ、天才的!とか。

まさに自画自賛。

僕自身瞑想や祈りやそういったものに若干のたしなみがあり、祈りから入ればそれが込められる途上でやはり意識が別のものに変わるという現象を何度も体験しています。

自分で描いておきながら、自分じゃない者が描いているというのは、なんというか創作当事者としても鑑賞者としても自分が存在している訳で、なんとも不思議な感覚です。

そして確実に、二度美味しい。

単純に、潜在的に、僕は絵が好きなんでしょうね。


2016年12月12日月曜日

休息 Rest


「休息」Rest
1455x1120(F80)/Oil on canvas/2016

その人は休息していた
安らかに
何かを想うように
何かを待つように
日だまりの中で

2016年12月11日日曜日

コンセプトとは解釈のための入り口である

絵で、言いたいこと、描きたいことが表現できた時は、たいてい言葉を発したくない。
何かを説明したいとも思わない。

「絵は絵でしか表現できない」
とは、マーラーの名言のもじりである。

東洋の美術はだいたいそうだ。

「見たままです」
「見る人の自由です」

という作者は多い。

まあ、そうなんだけど。

けれども、それは解釈を見る人に丸投げする姿でもある。

丸投げでいいのか?

そういう疑問がいつもある。

ヨーロッパに出品すると、作品の要旨やコンセプトをかなり細かく要求される。

これもまためんどくさいんだけど、彼らの鑑賞は分析的で、抽象芸術を解釈するのにかなりアンテナが立っているから、仕方がない。一所懸命、何か書く。

それも一理ある。

作者のコンセプトと、絵そのものと、鑑賞者の解釈が入り混じったところで「感動」がより深くなるという相乗効果を、僕自身も体験している。

例えば下の絵を見て欲しい。



これは僕の制作途上の作品の一例だけれど、何に見えるだろう。

黄色い風船のようなものが5つほど、下に向かって膨らんでいるのかしぼんでいるのか
まあ、そういう画面。
これを、何の説明もなしに解釈できてしまう人は、よほどの精通者であるに違いない。

では、題名を付けたとしたらどうだろう。

例えば「放出」とか「解放」とか。

そうすると、この黄色い風船が、風船ではなく、液体や気体に見えてくるかもしれない。

題名によって一つの「コンセプト」を与えたことで
その方向性、とっかかりは、単なるしぼんだ黄色い風船から
風船もしくは物体が物語る「何か」にレベルアップする。

「一体、何が放出されているか」
「何が解放されたのか」

「では、なぜそれは黄色いのだろうか」

実はここからが鑑賞、解釈の始まりである。
鑑賞、解釈は人によって千差万別だ。そして自由だ。
見る人の人生や体験によって全く異なるものとなる。

同時に作者の言う「放出」「解放」もとても気になってくる。

世の中には、作者が意味を持たせないで描いている絵はたくさんある。
それでも、見る者にとっては「意味のない絵」では困るのだ。

実際のところ鑑賞者の立場としては「意味のない絵」は僕は好きではない。

だから制作者として、知恵を振り絞って絵に魂を吹き込もうとする。

意味というよりは、魂と呼びたい。

僕はいつも魂のエネルギーを描いているから。

人やもののカタチそのものより、そこから発する魂のエネルギー。


さて、この作品にはどんな魂が込められるのだろうか。

それこそが、言葉にはできない、衝動と閃きと感性のみが支配する過程となる。

「絵でしか表現できない世界」である。








2016年12月9日金曜日

慈母、フランス人に批評される

2016年10/21〜23、ルーヴル美術館の地下(カルーセル・ド・ルーヴル)で開催されたサロン・アート・ショッピングに「慈母」を出品させてもらいました。



8号の小さな作品ですが、なかなか好評でした。


知らないおじさんが、こんなのくれました。



おじさん、よくわかってらっしゃる。


2016年12月8日木曜日

Rattray's Dark Fragrant



ラットレー・ダーク・フラグラント
使用葉:ブラックキャベンディッシュ、ペリク
原産国:デンマーク(UK OEM)
価格:4500円/ 100g(2016)

ちょっと前まではなかなかお目にかかれなかったラットレーの銘柄が、相次いで国内のカタログラインナップに加えられたようです。

僕もこのところはブラック・バージニア(Black Virginia)やアカウンタンス・ミクスチュア(Accountants Mixture)、そして定番のオールド・ゴーリー(Old Gowrie)と、ラットレーばかりを愛用しています。

このうちブラック・バージニア(Black Virginia)については次の機会に印象をここで書きたいと思っています。


今回はダーク・フラグラント(Dark Fragrant)。

ラットレーと言えば、上質なバージニアを主体とした葉の旨さがなんとも言えません。
その中でもマーリン・フレーク(Marlin Flake)は、その上質なバージニアとキャベンディッシュ、ペリクのバランスが絶妙で、常喫葉としては本当に上質です。

ちょっと乱暴な言い方になりますが
オールド・ゴーリーはマーリン・フレークからブラックキャベンディッシュを抜いたもの
対して今回のダーク・フラグラントは、バージニアを抜いたもの…と表現できそうです。

文字通り、香りがやや強い、黒いキャベンディッシュが主体
そこに僅かのペリク(希少なtobacco葉の漬物のようなもの)を加えています。
葉様はフレークで、あまり細かくはなく、ひらたく丸みを帯びた形状です。



生葉の香りは、レーズンのような芳香。
これはキャベンディッシュにアプリコットか何かのフルーツを使用しているからのように思われます。
僅かにバニラの香りもするけれど、バニラ加香はされているかどうかは分かりません。

火着き火持ちは開封直後でも申し分ありません。
アロマはずしっと重く、バーなどではルームノートに気を使いそうですが、着香のそれとは違って嫌味はないので、パイプやシガーに慣れた人であれば気にはならないでしょう。

喫味は序盤からとても甘いです。これも人によって変わるとは思いますが、イギリス葉に慣れた人にとって「甘い」と感じる甘さで、tobacco本来の熟成された甘さといえるでしょう。

冬になると、バージニアオンリーの葉が段々辛くきつくなってくるのですが、それに反比例するように、ブラックキャベンディッシュ主体の葉がとても味わいを増してきます。

まさに冬のよく温まった暖かいリビングにピッタリの一品。

合う飲み物は、紅茶、シェリーなど。
時間帯は夜。

2016年12月7日水曜日

秋景 Autumn scene



秋景 Autumn scene

333x333(S3) / oil on canvas / 2016

栗の山の向こうから秋が来て
里の水が冷たい
神社でお参りして
お豆腐を食べて帰ろう

2016年12月3日土曜日

夏の疾走 Sprint in Summer


夏の疾走 Sprint in Summer
oil in canvas / 455x333(P8) / 2016

きらきら、ざわざわ、さらさら、ぐるぐる、夏の思い出は疾走する。





風景画がとても好きで、かつては風景画家になりたいと本気で思っていた事もあった。
僕が画業に復帰したきっかけも風景を描きたい一心からだった。

でも、描いてもちっとも気に入らない。
見た人が「素晴らしい」と言ってくれる絵でも、描いた本人にとってはつまらない。

「これじゃ写真を見ていた方がマシだ」

印象派的な画風は昔から変わらないけれど、荒くざっとした色だけで表現しようと思えば表現できるし、まあ、面倒なのであんまりやらないのだけれど、逆に細かく描こうと思えばいくらでも細かくできる。

でも、そうじゃない。

なんとか自分だけにしか描けない、自分が見てきたものをどうにか画面に表せないものか、何年も試行錯誤しては、ただ失敗作が累々と積み重ねられてきた。

そのうち、「雨上がり」「慈母」「夜明けの岸」という、僕にとっては記念すべき3つの小作品を描き上げた頃から、明らかに自分の目が、ありのままをあるように描くということから脱却し、そこにあるもののエネルギーそのものに目を向けることができるようになったのだと感じた。

夏の高原にいる時、僕は清々しい気持ちと、ざわざわした気持ちがいつも同居する。
その原因は一体何なのか。

山や森や湖は、夏に生命を燃やして一斉に叫んでいる。
ものすごく急いでいる。
生命が沸き立っている。
立ち上がって僕に呼びかけている。

そういう姿が見えた。

夏の高原は走っているのだ。



2016年11月19日土曜日

父82歳の誕生会

いつ訪ねても虚ろで眠ってばかりの父が、妹が訪ねて来ただけでいろんな反応や表情をする。

小さなレストランにてささやかな誕生日の会食。
流動食しか食べられないけれど。

特養の自分のベッドに戻ってからも、母や妹の手をいつまでも握って離さない。

誰なのかは分からなくても、意識の奥底では娘との再会が嬉しいのだという思いが伝ってくる。

あと何回こうして会えるだろう。

2016年11月14日月曜日

炎の慈母 II The Mother in Flames II


炎の慈母 The Mather in Flames II
Oil on Canvas / 910x910(S30) / 2016
300000

開け放たれた扉から
それは炎のように舞い上がったのです

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2016年11月6日日曜日

「ガーネットの夜」A garnet night


ガーネットの夜 A Garnet Night

Acrylic on Panel/727x530(P20)/2016/Chihiro SATO
90000(額装別)

その夜は、眠れませんでした
喜ばしい未来の物質化の片鱗が
不安と夜の闇を切り裂くので
うれしくてうれしくて
ガーネットと一緒に
ずっと泳いでいました



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2016年11月4日金曜日

「さかな」Fish


さかな Fish
Oil on Canvas / 910x910(S30) / 2016
150000(額装別)

きれいなみず
およぐあたち


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2016年11月2日水曜日

「佇む公園」A park nestling


佇む公園 A park nestling
acrylic on canvas/455x333(P8)/2016
20000(額装別)

公園は佇む
柔らかく、暖かく
おうちにかえろう
かねがなる


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2016年10月26日水曜日

農翁



農翁 / 2016 / 紙にペン


僕はいつも窓から彼を見かける。
暑い日も寒い日も、雨や雪が降らない日は殆ど毎日
耕したり、何かを植えたり、被せたり、日がな畑にいる。

2016年10月25日火曜日

「夕べのオーラ」Aura in the evening


夕べのオーラ Aura in the evening
227x158 (SM)/2016
30000(額装別)


夕暮れの森の中に
その人は立っていた
周囲は焚き火のように
明るく輝き
導かれるように
私はそちらへ向かった。


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2016年10月6日木曜日

「輝流」Bright flow


「輝流」Bright flow
273x273(S4)/2016
50,000(額代別)


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2016年10月2日日曜日

「岩屋の慈母」The Mother at the cove


「岩屋の慈母」The Mother at the cove

岩屋の奥に
花は咲き
光差込み
静かにかの方はおりました


F80 Oil on Canvas
第101回二科展出品(入選)
©2016 Chihiro SATO(サトチヒロ)


1,600,000

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2016年9月27日火曜日

オイル交換67096km


久しぶりのオイル交換。
今回はセルフで、上抜き。
フィルターも交換しようかと部品は取り寄せたが、フィルターは次回に持ち越し。

実に17300kmぶりの交換。
BMWの推奨が25000kmだから、範囲内ではあるものの、抜いたオイルの色やエンジンのフィーリングの違いを見れば、やはりメーカー推奨値はやはりあり得ない数値。

過去の経験から言っても、賞味期限としては7000キロが限度だと思う。
とは言ってもクルマの調子がおかしくなるわけでもなく、今回は合計で0.6リッターほどの補給で1.7万キロは走っているので、灼熱と渋滞の日本でも、合成油ならば2万キロまではエンジンを痛めることもないだろうとは感じた。
ただ、1万キロを越えると次第にメカニカルノイズが気になってくる。気分的にはあまり良いものではない。



2016年8月26日金曜日

スーパーインプレッショニズム

禅、水石、茶碗

僕のやってること、やろうとしていることは、おそらく最終的にそこに帰結するだろう。

もしも美学的に分類されるのなら、スーパーインプレッショニズムとでも名付けてもらいたい。

それが日本の美の収束点だ。


2016年8月16日火曜日

2016年8月4日木曜日

1番の批評家、鑑賞者であれ

自分の作品に対しては、作者は1番の批評家でなければならない。鑑賞者でなければならない。
最も優れた批評家、鑑賞者であってこそ、最も優れた作品になりうる。

だから制作過程においては、常に自分の作品をじっくりと見つめ、鑑賞し対話する必要がある。

2016年8月1日月曜日

画風について

いつもいつもと言うわけじゃないんですが、たまに画風をそろえたほうがいいよと言われることがあります。

確かに絵を見て、これは誰それの作品だとすぐにわかるようなものの方が世の中では、受け入れられるようです。
特に公募展何かに出す場合には画風を揃えないとやっぱり評価は難しいと思います。


しかし、画風をそろえることがそんなに重要なことなのでしょうか。

その時の気持ちや心情季節によって、描きたいものも変わるし、筆のタッチだって使う色だって全然変わってしまいます。

慈母を描いた人間が、梅干しと4つのとってもいいものと見つめる私を絶対に書かないと言うのはやっぱり人間として自然ではないと思うのです。

むしろ、1つの画風にこだわり、それしか書けなくなると言う方が描きどうしてもプロとしても人間としてもかなり偏った状態なのではないかと思うのです。

偏ることがいけないことではないですけれども、そして1つの画風だけでずっと押し通すのも決してそれ自体が悪いことでは無い。

しかし同時に、逆に定まらない画風、いくつもある画風というものがあっても僕はおかしくないとも思うのです。

大切な事は画風を揃えることではなく、キャンバスに描かれた色や光影の世界が、作者と鑑賞者のものであるということが、鑑賞者に一目でわかることだと、僕はいつも描きながら思うのです。


2016年7月28日木曜日

輪郭及び偶然性について

輪郭で物の形が構成されているなんて事は絶対にない。
輪郭のように見えるのは溢れ出る色を止めるための境目である。絵を輪郭から捉えようとしている時点でもうそれはすでに嘘なのである。

偶然が織り成すだけのものを作品としてはならない。作品とは偶然に見えても常に計画的に行われるプロセスであり、意識と無意識そして神の意思がセットになって現れた結果である。

もしも見るものに作品が偶然の産物のように見えてしまうのであればその作品は失敗である。


2016年7月14日木曜日

梅干しと、4つのとってもいいものと、見つめる私 A pickled plum, very nice four things, and me watching them


梅干しと、4つのとってもいいものと、見つめる私
A pickled plum, very nice four things, and me watching them

273x273(S4)/2016

26,000(額代別)


2016年7月11日月曜日

橋の上より A view from the bridge



「橋の上より」
A view from the bridge

727x530(P20) / oil on panel / 2016

高いところから身を乗り出して見る風景は
きれいなものばかりじゃないだろう
深く沈んだものばかりでもないだろう
愛は泥だらけ
それでも這い上がって咲く

120,000(仮縁付き)

2016年6月29日水曜日

フツーのヤツには絵は描けない

絵でも小説でも、全くの日常からは芸術は生まれにくい。
劇的な体験が咀嚼され、想像力や空想力と化学変化を起こして、画面に現れる。

妄想で描けばいいじゃないか。
そう、妄想でね。

その妄想にも体験が必要なんだよ。

文字だけ書いていても小説は生まれないし、絵だけ描いていても絵画は生まれない。

もちろん、絵描きはとにかく絵を描かなくては始まらないが、もしそれが同じルーティンを辿る生活の中で行われるのだとしたら、それは時間の無駄以外の何者でもない。

日常からは何も生まれない。

絵描きには体験が必要なのだ。

2016年6月28日火曜日

人生の投影

人生の喜び、哀しみ、慈愛を投影したものでなければ、真の芸術とはなり得ぬ。
それが作者のものであろうと、鑑賞者のものであろうとも構わない。

2016年6月24日金曜日

水たまり Puddles


みずたまり
Puddles
530x455 (F10) / oil on panel / 2016

雲切れて
また蝉しぐれ
でぼこぼ道のみずたまり

60,000(仮縁付き)


2016年6月20日月曜日

シャマン的アプローチ

僕の絵は常にシャマン的アプローチで描かれる。

まずはじめに祈りがある。
この段階は意図である。ある程度のモチフへのイメージ、全体の色、これらが筆やナイフでもたらされる。
この基調は完成の最後まで保持される。

この段階でモチフが具体的に決まっているものもあれば、そうでないものもある。
ただ基調だけがある場合、モチフは最後までなにが浮かび上がってくるかは分からない。

が、モチフがあるかないかはあまり重要なことではない。
大切なのは祈りと基調である。

次に潜在意識、神の意思によって絵の具がキャンバスに縦横無尽に垂らされる。
ここには意図は色と透明感以外には反映されない。
この段階は最も重要で、精神を整え、じっくり時間をかけて行わなければならない。

やがて全体像が見えてくる。
それは基調のモチフを保持していることもあれば、全く別のものに変化していることもある。

ここで、黒またはペインズグレーによる輪郭作業が始まる。

この作業は、無意識のうちに行われるものと、ある程度の意図を持ったものとに分かれる。

最初は無意識だが、やがてモチフが見えてくればそれに近づくように輪郭を追う。

最後にモチフに対して陰影を付ける。
印影は常に光と透明感を意識する。
この作業によって、モチフに命と躍動、魂が吹き込まれる。

こうして出来上がった作品は、僕と神の合作であり、エネルギーとコーザルを発する。

2016年6月10日金曜日

炎の慈母 The Mother of Frame


炎の慈母
The Mother of Frame

910x727 (F30) / 2016

無限の慈愛は
コーザルの炎となって
天に昇ってゆく

360,000(額代別)

絵のノイズ

良い絵にはノイズがある。
ノイズのない絵はつまらない。

ノイズだらけの絵は観る人によって価値も評価も変わるかもしれないが、ノイズのない絵に比べればマシである。

ノイズは意図的には作れない。
ノイズを排除してしまった絵には命は宿らない。

2016年6月8日水曜日

考え込む時間

考え込む時間を無駄と思わなくていい。
見据えて、迷い、筆が止まってしまう時間は制作時間の大切な一部だ。

芸術は国力

芸術は国力のバロメーター

2016年6月6日月曜日

独り Alone


独り
Alone

455x333(P8)/2016

独り、ラッパを吹く
森が震える
誰にも聞こえない
僕には聴こえる
森にも聴こえる

90,000(仮縁付き)

2016年6月5日日曜日

批判と批評

昔々、他人の作品を批判する学生がいた。
「この作品はここがいけない」「これじゃあ芸術とは言えない」

とにかく、目にした作品、全て批判してシロクロつけてないと気が済まない。
いや、シロクロというよりほぼクロ一色。

本人は批評のつもりらしい。
聞いている方は、最初はなるほどふむふむと聞くのだが、それが度重なるとだんだん気分が滅入ってくる。

「そんなこと本人に直接言えよ」である。

本人に言えないのなら単なる陰口なのだ。
当人といえば、言うほど大した作品は作ってない。

まあ学生なので大目に見てはいた。

ところが最近も似たような出来事に遭遇して、かなりガッカリした。
今回は学生ではなく、一人前の職業絵描きである。

作品の評判、批評は大切なものだ。
が、それは親身と誠意が伴っての話であって、
購買者、鑑賞者でもない無責任な立場で述べても、作者には何の関係もない。

特に批判は、同業者の場合、細心の注意を払って行わなければならない。
批判そのものが、批評者の心理的側面を雄弁に物語るからであり
また批判が、批評する側のセンス、価値観、実力を超えることは絶対にないからだ。

ということは、どうしても批判しなくてはならないのなら
まだ絵を始めたばかりの画学生にデッサンを教える時か
さもなくば、自分の実力を恥じ、その恥をさらけ出してでも、本人に直接物申す
真摯な批評家鑑賞者として本人に奉仕する覚悟がなければならない。

その前に作り手ならば、他人の作品を断定的にあれこれ言う前に、まず自分の作品をなんとかしろである。

批判が陰口になってしまう心理的側面とは何か。

第一に「自信のなさ」
自分が作り手として目指しているもの、信じているものが、本当に正しいかどうか分からないと、世の中の事象が、自分の信じようとしているものに合致しているか外れているかが非常に気になる。
他人の価値観を、単純化した自分の価値観のパズルに当てはめているだけである。
これは、批評される側にとってはどうでもいいことであると同時に、芸術にとっては害悪そのものでしかない。

第二に「嫉妬」
セールスマンの中に、他社の営業の悪口を言うのがたまにいる。
いわば商売敵について否定的なことを言うことで、相対的に自分を上げたい訳だ。
もっともそんな営業マンはロクな成績は出せないし、顧客からも信用されない。
力のあるセールスマンもクリエイターも、嫉妬を覚えたら「超えてやる」と黙って精進するか、相手に学ぶかを選択するだろう。

第三に「満たされない承認欲求」
自分が望んでいる承認欲求が十分に満たされない時、人は自分を認めない人や価値観に対して批判的になる。

第四に「相手が気に入らない」
これは理屈ではない。


能力の高い人は決して陰で誰かの作品の批判などしない。
実のある批評は萬金に値する。
そしてそれは常に本人の前でなされるのである。

2016年6月4日土曜日

ワイパーリレー交換




待てど暮らせど代車出来の連絡来ず&そろそろ梅雨前線が怪しいため、自力で部品を取り寄せて交換。TYCOエレクトロニクス製。
リレーは左席側エアクリーナーボックスの下。
取り外し〜組み付けに細かいコツはいるものの、作業性はイタ車に比べれば格段に良いのです。日本車ほど親切でフールプルーフではないにしても。

この辺はドイツ車は笑っちゃうほど「設計的」で、パッキンゴムの先端まで「設計」してあるのです。
そこまでやる必要あるのかな?とも思うけれど、そこが工業大国ドイツのプライドなのでしょう。

でも、左脳ばかりでやってる痕跡ありありだから、「理屈で考えればこうなるはずだから正しい」という想定で、想定外の事態にはなかなか対処できなかったりする。
前にも書いたけれど、排水周りは特におかしい。
ぎっちりパッキンを設計して材質にもこだわって取り回ししているけれど、水はそんなことお構いなしに思いもよらない場所から漏れて、ヘンなところにサビが出たりする。

それから、ネジの数が多すぎる。強度がそんなに要らないところに4つもビッグなヘキサゴンが使われていて「????」。
日本車なら二箇所は嵌合、ネジ2つでしっかり留まるし防水もちゃんとしてる。

スズキのクルマをいじった事があるけれど、「え?ここ、こんなんでいいの?」という感じのところが案外しっくりちゃんと機能していたり、ぞんざいに扱ってもビクともしなかったり、「理屈だけじゃないんだよ」という日本の技術者…というか職人の魂を感じる。

あ、イタ車は論外。バラすとか水とか、頭の中にはない模様。彼らにとってエンジニアリングは芸術か何かの一種らしい。





取り敢えず、最低限の動作はするようになったワイパー。

ただし雨滴センサと間欠間隔の調整は戻らない。取り敢えず要らない機能だから、ま、いっか。

写真は取り外した後のシーメンス製旧リレー。

2016年6月3日金曜日

輪郭とエーテル

東洋人は輪郭で、西洋人は陰影でものを見るという。
色彩は東洋人も西洋人も共同で発見したようなものだ。


輪郭がなければ気が済まないのは日本人特有のものだが、元来輪郭とは物には外皮があり、それが陰影を超越したエーテルの殻となって物質のエネルギーを形作っているものである。

故に、最初に輪郭があるのでは決してない。
まず物質が有り、そこに魂(生命)が宿る時、初めて輪郭は生まれる。

物質は光の反射であるが、これは陰影ではない。色である。
色の反射によってそこに存在する物質が認識される。

そしてエーテルが常に外皮を回っているのである。
エーテルのエネルギーは太陽エネルギーよりも常に弱いのであるから、自然に陰影が付く。
これが我々が目に見えているものである。

2016年6月2日木曜日

【告知】サトチヒロ展 (7/25〜7/31) のお知らせ



サトチヒロ展
2016年7月25日(月)〜7月31日(日)
銀座幸伸ギャラリー2F
東京都中央区銀座7-1-1 幸伸ビル2F(交詢社向かい)

森羅万象に宿る魂のエネルギー、一瞬の光、陰影、未来へ向かう心象が、深い瞑想の中で描き出されています。
2016年前半の新作と、前個展で好評だった作品も何点かアンコール展示致します。お気軽に、そしてゆっくりとおくつろぎください。




2016年6月1日水曜日

「景色」というものの絵画的解釈及び企図

平面美術には「景色」がもっと必要だ。
対象をそのままなぞるだけなら写真で良いとまでは言わないが、イマジネーションは作者の意図を越えることが難しい。

だからといって抽象が具象に勝るわけではない。

もしも心象や偶然に頼っているばかりなら、その絵は個性的とは言えない。誰が描いても同じになるか、作者の超個人的な体験だけを掘り下げなければ解釈はとてもむずかしい。

焼き物には「景色」という表現がある。

これは作者の意図ではない。
見る者、使うものにとっての見立ての世界である。

しかし、焼き物の景色は、釉薬をかけただけでは全くその仕上がりは想像できない。
窯の中での神の一手、いや、ほぼ全権が必要である。

焼き上がった時に、景色が出来上がるのを、作者も鑑賞者も心待ちにする。
そういう意味においては非常に他力本願的であるとも言える。
こういう自然法則に委ねることのできる芸術は幸福である。

絵画はそうはいかない。

と、思われている。

筆を使おうがナイフを使おうが、ドリッピングしようがスパッタリングしようが、人の手にどうしてもその結果が追従してしまうと。

で、そこから脱却するために、様々な人が様々な試行錯誤をしてきた。

思うにどれも「潜在意識」の部分で留まっているように思える。
素晴らしい作品ほど、鍛え上げてきた手わざの範疇は越えない。

で、僕の途中結果。

意図(手わざ)と潜在意識の他に、神の意識がどうしても必要だ。

精神を研ぎ澄ませ、宇宙と一体になった時、作り手はシャマンとして媒介として、画面にそのメッセージを写し取ることができるのだ。

その神の意識こそが、鑑賞者と作者を結ぶ、景色になる。




2016年5月31日火曜日

全ての家に芸術を

全ての家には藝術と呼べる絵画がある。

新時代の精神的藝術が、それを所有し鑑賞する者の人生や生活を一変させ、経済や文化の担い手へと変貌させてゆく。

深い精神性を取り戻し、人間復興へと突き進む。

まさに藝術の世紀である。

2016年5月28日土曜日

良い絵、鑑賞者と描き手に必要なこと

絵を見る目を養いたければ、絵を見るほかない。
「これは作品です」と主張する絵をとにかく一枚でも多く見ることだ。

「きれい」か「きれいでないか」は誰でも分かる。

そのうち「すごい」「それほどでもない」が見えてくる。

もっと見れば「好き」「嫌い」が見えてくる。

好き嫌いが分かれば「美しい」「美しくない」もわかる。

そしてさらに見れば「人生に影響を与えてくれる」かどうかが見えてくる。

やがて「価値あるものになる」かどうかが分かる。

最終的に、本物か偽物かが分かるようになる。


作家が自分の絵を良くするには、自分の描きかけの絵を見つめるしかない。
見つめて見つめて、鑑賞する。
やがてそこに本当に自分が到達したかったテーマが見えてくる。
そしてまた筆を進める。
また見つめる。
もっと見えてくる。
また見つめる。
そうやって絵は藝術に昇華してゆく。
見る人の人生に大きな影響を与え、勇気や希望を与える藝術となる。

作家自身が見つめていない絵はダメだ。
数時間で出来上がる絵に、藝術が担うテーマは隠されてはいない。
何かを写し取っただけだ。
それは一瞬の驚きやなぐさみものや装飾としての価値はあるだろうが、時代を超えて人の人生に影響を与えるような力は潜んではいない。

表層の意識的な意図を超えて、本質に迫る迫力と感動を表現するには、神の意志が必ず入っている。
それは作者が意図によって、あるいは偶察によって描き始めた作品を、作者自身が見つめることによって神の意志を読み取り、神の手に委ねることに成功した作品である。

それは描き手やベテランの鑑賞者だけでなく、絵のことを分からないと自称する者さえも瞬時に魅了するのである。





2016年5月25日水曜日

花と光 Flowers and the light


花と光
Flowers and the light

410x318(F6)/2016

花は光によって咲き
光によって実を結ぶ
岩の上でも水辺でも
今咲けば、明日実を結ぶ

20,000(仮縁付き)


2016年5月19日木曜日

護られた庭 Sheltered backyard


護られた庭 (Sheltered backyard)
333x242(F4) / Oil on canvas / 2016

みんなあつまれ
ここは護られている
いつでも
何の心配も要らない
夕陽とひまわりと裏木戸の思い出




護られた庭 Sheltered backyard


護られた庭 (Sheltered backyard)
333x242(F4) / Oil on canvas / 2016

みんなあつまれ
ここは護られている
いつでも
何の心配も要らない
夕陽とひまわりと裏木戸の思い出

60,000(仮縁付き)




2016年5月18日水曜日

燃費計測不正はメーカーだけが悪いのか

ちょっと前に、三菱自動車が軽自動車の燃費を良く見せかけるために、燃費データを改ざんしていたというニュースが巷を賑わせました。

数日前には日産のディーゼル車が韓国で燃費の改ざんをしていたとの疑惑で刑事事件になりそうな気配。まあこれはおそらく濡れ衣でしょうね。
そして今日はスズキ自動車です。

三菱は以前から軽に限らず実燃費との乖離が大きいのは噂になってはいましたが、スズキの場合、どうやら国が定めた試験方法で測定し直しても燃費は変わらないということで、じきに沙汰止みになりそうではあります。

いずれにしても不正は不正ですが、中には「騙された」などと宣う向きもネットに散見しています。

しかし、僕から見ると、どの案件も「メーカーが不憫」という印象しかありません。

例えばヨーロッパ車の場合、実燃費は
常にカタログ値の±10%前後。-10%ではなく、「±」です。
日本車の場合たいてい-20〜-30%。酷いのになると-50%(新車による実体験)。どんなに頑張ってエゴもといエコ運転してもカタログ値は到底無理。

三菱やスズキだけじゃない。
昔からです。

実燃費と程遠い燃費測定を許している法律そのものも問題だし、それでよしとしてるユーザーもですよ。

カタログデータだけを見て燃費の良し悪しを決める。実際に数十パーセントの乖離が出ても誰も文句を言わない。

それでいて二言目には燃費燃費とそればかり。

「日本車が一番!」という人ほどそんな傾向があるようにも思えます。

燃費は大事です。

しかしレシプロエンジンである限りエネルギー効率には限界があります。
夢のような燃費を望むというのは無知というものです。

いささか古い計測方法ですが、10モード15モードによる燃費で見た場合ここ40年それほど劇的にはクルマの燃費というのは改善されてはいないのです。

実情に合わないという理由で新たに制定されたJC08モードですが、これとて基本的には10/15モードと変わったわけではありません。実質両者の違いはほんの僅かです。

ところが世間のイメージ的には燃費は時代とともにどんどん良くなっていると思われている。

スズキスイフト(1.2L)の場合、カタログ値はリッターあたり21km/lです。
実燃費はリッターあたり16km〜17km。
実に立派なものです。
でもね、これは30年前のリッターカーと似たような数値です。

ただ安全装備やなんやかんやで重量が増えた分、メーカーは苦労している。
30年前と同じエンジンでは当然この燃費は出せません。
エンジンの効率も確かに上がっています。

しかしこの低燃費の達成が今、主に何でなされているかというと、燃料噴射とアクセルレスポンスの制御です。
アクセルペダルをガバッと踏んでも、コンピュータがブロックしてリニアには燃料はエンジンに運ばれない。
たいていのクルマはこのカラクリで燃費を稼いでいる訳です。
だから加速はあんまり良くない。

スバルレガシィのもっとも出力の小さな2.0Lのエンジンのカタログ値は13km/l。しかし実燃費が8km/lを上回ることは稀でした。

スバルという会社はバカ正直なところがあって、フールプルーフで燃費を稼ぐようなことはしない。
しかしそれでもやはりカタログ値は盛って盛って盛りまくった数値が書かれています。
バカ正直な会社にしてこれです。

これが何を示しているのか。
それはメーカーが不誠実だからではありません。
意味のない計測方法を強いる法律と
その名目燃費ばかりを気にしてクルマを選ぶユーザーに合わせているからです。

その親玉が「ハイブリット車」です。
あれは今の法律による計測法でもっとも成績が上がるクルマです。

スイフトはとてもいいクルマですが、加速性能をきちんと出そうとすればおそらく実燃費はもっと高く(悪く)なってしまうでしょう。
しかしそれではハイブリッド車の名目燃費とまともに戦えない。
だからいろいろ小細工をしてエンジンをデチューンして名目燃費を稼ぐ。

しかし実際の運転ではこんな燃費は決して出ない。実際の走行時の加速やアクセル開度、空気の抵抗、路面抵抗にあまりに差があるからです。

この現代において、オドメータと満タン法によって愛車の燃費を把握している人が一体どれだけいるでしょうか?
(クルマのコンピュータの燃費計測計は5%程度の誤差があるので正確ではありません。)

実際、クルマというのは
燃費を良くしようと思えば動力性能が犠牲になる。
市街地で燃費がいいクルマは高速では良くない。
高速で燃費がいいクルマはしがいちでは悪くなる。
レシプロエンジンのエネルギー効率には限界がある。

常にこの矛盾と戦ってるわけです。

この辺の矛盾を最近の小型ヨーロッパ車は力技で解決しちゃってますよね。

つまり
エンジンを極力小さくする。
スーパーチャージャーや低圧縮ターボで低速トルクを太らせる。
低燃費を気にしてアクセル開度を抑えればそれなりに低燃費で走れる。
追い越し加速など俊敏な加速が必要な時はターボを効かせて走る。
巡航の際はどちらも最小限の効きになる。
結果的に、パワーは排気量比2倍程度のエンジンと同等となり
燃費は排気量比1.5倍程度のエンジンと同等となる。


僕自身はハイブリッドも低圧縮ターボもあまり好きではありませんが、テクニカル的にはハイブリッドよりもターボの方が王道ではないかと思います。

ハイブリッドは実際の使用場面によって著しく燃費が変わってしまう。
電気で走る距離を多くしないかぎり、ストップアンドゴーの多い場所でしかそのメリットを味わうことが難しいのです。
電気で走るのがいいなら、電気自動車に乗ればいい。

もっとも環境負荷という意味においてはハイブリッドもEVも決して優等生とは言えない。
ヨーロッパ車のダウンサイジングターボは燃費そのものよりも環境負荷を念頭に置いているのです。
もうこの時点で着地点が全く違うのですが、この話はまた別の機会に譲るとして……。

何はともあれ
メーカーは我々が普段使う状況での実燃費に近いデータをカタログに載せるべきです。
そのためには我々ユーザー自身がもっと燃費以外の部分にも目を向けてクルマを走らせる必要があります。









2016年5月17日火曜日

ワイパー動かなくなる



昨日あたりからワイパーがうんともすんとも動かなくなりました。
ヒューズは正常です。たぶんリレーじゃないかなあ。

クルマ屋さんに連絡したら「とにかく持ってきて下さい」って、雨降ってます。

夕方ぐらいからやむみたいですが。

ネットを見ると、リレーは対策対象部品になってるらしく、対策前がシーメンス、対策部品がタイコエレクトロニクスのようです。

まあ17年ももったんだから、良い歩留まりと思います。


タイコって医療器やエンプラ系だけかと思ったら電子部品もやってるのねー。

「対策部品にはTYCOって書いてある。中国製?」なんておっしゃる人もいますが、TYCOは世界有数のハイテク系のコングロマリットです。


さて、ワイパーは以前から間欠と雨滴センサが不動でしたので、おそらくどこかでスイッチが壊れているとは思ってました。
今回、普通のワイパー(低速と高速)も不動になり、改めて配線図を見ると、一個のリレーで全部をまかなっているみたいです。
以前から寿命だったのですね。

クルマって、乗れなくなるほどのトラブルになる前に必ず走行に支障のない不具合が起きると言いますが、こんな小さな部品もそうなのだなあと再認識しました。



2016年5月13日金曜日

Dunhill My Mixture BB1938



ダンヒル・マイミクスチュア・BB1938
使用葉:ヴァージニア、ラタキア
原産国:イギリス
価格:1750円/50g(2016)

昨年暮れあたりから日本国内でも見かけるようになったダンヒルの新製品です。が、大元は戦前から存在しやがてダンヒルのtobacco撤退で消えたBaby'sBottom というミクスチュアの復刻版です。
残念ながらBaby'sBottomを味わった経験がないのでオリジナルとこの復刻版的BB1938がどう違うのかは分かりません。



生葉の香りは鮮烈なラタキアとヴァージニアのハーモニーです。それ以上でもなくそれ以下でもない、しかし実に心地の良い爽やかなものです。

喫味は終始軽く爽やかです。
いや、それはダンヒルのド定番、マイミクスチュア965との比較でのことです。
缶のデザインが良く似ているので、否応なく比較してしまいますが、傾向は似ているようでだいぶ違う方向性を向いています。

例えば965のむせかえるような複雑なアロマはありません。ガツンと来るバイトやまとわりつくようなオリエントの絡みもありません。その代わりラタキアのスパイシーなアロマとヴァージニアの爽やかな甘味が強調され、くっきりしたコントラストと単純明快で分かりやすい素性を持っています。

火付、火持ちとも申し分なく、序盤から薄めですがヴァージニアの爽やかな甘みとラタキアの薫香を存分に味わうことができます。そして後半に行くに従ってふくよかな風味が増してゆきます。


この葉の最大の美点は、ドローアンドブローに全くと言っていいほど気を使わなくて済むというところでしょうか。
大きなボウルでも小さなボウルでも、ぞんざいな喫い方をしても用心深く喫っても、味が大きく変わることがないのです。

個人的にはこれからイングリッシュミクスチュアやラタキア入りの葉を始めてみようと思う方に最適と思うと同時に、ベテランにとっても常喫葉としても全く申し分のない実にシンプルで飽きの来ない軽いキャラクターを持った葉だと言えると思います。
MM965がややクラシカルなイングリッシュミクスチュアだとするなら、このBB1938は例えばマクレーランドのようなより現代的で軽やかさを強調した葉だと言えるでしょう。
ニコチン酔いの心配も、舌荒れの危険性も殆どありません。

もしも965と同様に手軽に街のタバコ屋さんで手に入るなら、「とりあえず」の定番として常備しておく価値はあります。

良いtobaccoです。

2016年5月11日水曜日

「早春」 In early spring




「早春(In early spring)」
530x455(F10)/Oil on Panel/2016/Chihiro SATO

春の到来を告げるもの
暖かなもの、冷たいもの
やさしいもの、厳しいもの
雪解け、うねる波
希望、心のなかに抱えたもの
明るい、弱々しい
刻々と変わりゆく陽の光

The usher in the spring
Warm ones, cold ones
Friendly ones, tough ones

Thawing snow, undulating wave
hope, some of the mind
Bright, feeble
The changing light by the sun

池のある庭 Pond Garden


「池のある庭」Pond Garden
333x242(F4) /Oil on Canvas / 2016

山を越え
水面を渡って
頬の汗を拭う
光と風

40,000(仮縁付き)

2016年5月5日木曜日

作品説明会

いつか個展で作品説明会をやってみたいなあと思っています。
毎日、予め告知した時間に作品のコンセプトや意図について説明するのです。

解釈の深まり。
絵画鑑賞への鑑賞者独自の視点の誘導。

YouTubeで作品についての説明ビデオを作りたいとも考えています。

2016年5月2日月曜日

サトチヒロ個展2016「未来心象」にお越しいただき、ありがとうございます。

4日間に渡る、サトチヒロ個展2016「未来心象」
無事終了することができました。
お越しいただいた皆様、本当にありがとうございます。
今、心から感謝でいっぱいです。

本当は一人ひとりにお礼申し上げたいところですが
この場を借りてひとまずは、ご来場、本当にありがとうございました。





さっと駆け足で見て行かれる方

じっくりと時間をかけ、椅子に腰掛けて堪能される方

どこかのお店で見たハガキを頼りに来ていただいた方

2日連続で見に来てくれた方

一度帰ってまた戻ってきて価格を聞きに来てくれた方

説明に一心に耳を傾けてくれる方

感想や解釈があまりに的確で作家がびっくりするほどの方

他の人にも教えるからとパンフレットをまとめて持って帰ってくれる方
何十年ぶり、十数年ぶりに個展のことを聞きつけて訪ねてきてくれた旧友





絵をもっともっと見て欲しい。
もっともっと楽しんで欲しい。
時間をかけて絵の世界の素晴らしさを一緒に分かち合いたいです。

巨匠の絵でなくても、何十億円もする名画でなくても
惹かれる絵に出会って
じっくり時間をかけて、座ったり、寝そべったり、立ったりしながら
リラックスして向き合うと、本当に自分の世界に新しいヒントや勇気や
世界観が生まれてきます。
僕自身も何枚ものそんな絵に出会ってきました。

そんな絵は必ずあなたの心に瑞々しい生きるエネルギーをくれるでしょう。
その時、それは芸術に昇華してゆきます。

そんな絵が描ける絵描きを目指してこれからも精進します。


個展、またやります。
何度もやります。

日常的に誰もが気軽に絵の世界を楽しめるように
「サトチヒロの絵、いつでも見れる、見に行こう」と言われるように
そして「手元に欲しい」とみなさんに言われるように。






友人が、丁寧な紹介動画を作ってくれました
ありがとうございます。
行きたくても残念ながら行けなかった方も雰囲気を味わえるかも。




2016年4月28日木曜日

個展が始まりました


個展開催中です。
有楽町駅からほど近いアートセンタービル4Fでやってます。
泰明小学校向かい、オーバカナルの上です。


期間は4/28〜5/1
時間は11:00〜18:30です。
入場はもちろん無料

2015年から2016年4月までの作品を中心に25点を展示しています。

ネットで未公開の作品もあります。

お気軽にお立ち寄りください。

絵は、気に入ったもの、好きなものをじっくり見るのがオススメです。
もちろん鑑賞の仕方に決まりはありません。
好きかそうでないか、それだけ。

あとは、ご自分の部屋で見るように、何十分でも何時間でもくつろいでください。
ジャマする人はいません。

楽しんでくださいね。


2016年4月27日水曜日

「早瀬」(Rapids)


「早瀬」Rapids
1000x727(P40)/Oil on Canvas/2016

早瀬は照らす行く先を
どこであろうと
君は自由だ
跳ね、躍り
一気に駆け下れ大海へ

600,000(仮縁付き)

2016年4月26日火曜日

額装の役目

額装は、次の役目のどれか。

絵を見る窓
絵の外にある色
絵を豪華にみせる
絵に輪郭を与える
明暗のバランスをとる

このどれかを担わせること。

2016年4月17日日曜日

2016年4月13日水曜日

画家は実際の世界を見聞きしなければならない

抽象が心の中の世界をなんのモチーフもヒントもなく純粋に描き出せるのなんて、本当にわずかなパターンしかないのだ。

そんなのの大抵は堂々巡りや同じようなパターンばかりで、誰が描いたのかさえも分からなくなってしまう始末だ。

画家はどんなに内省的で抽象的な表現になろうとも、外界の観察を怠ってはならない。

絵を描くことと同じかそれ以上に、モチーフを見るという事は重要不可欠な芸術の基礎なのである。

2016年4月12日火曜日

「慈母」(The mother in love)


「慈母」The mother in love
455x380(F8) / Oil on canvas / 2016 /Chihiro SATO

森の奥
まばゆい天の光は
岩屋の近くの花園まで差し照らし
慈母は護られ
愛と平安に満ち足りて居り。

原画320,000(額別)
リトグラフ50,000(額付き)

2016年4月9日土曜日

絵の情報量

僕は、自分の作品に圧倒的な情報量が欲しいのだ。

それは描いている自分自身が絵から啓示を受けるほどの、膨大で深遠な叡智だ。

見れば見るほど新しい気づき、発見がある絵だ。




多作であれ

ただひたすら、多作であれ。

2016年4月8日金曜日

芸術となり得る条件

自分の絵について何の説明も出来ないのなら、それは芸術とはなり得にくい。

自分の絵について、全て説明しきれるとすれば、それもまた芸術とはなり得にくい。

芸術家は常にシャマンでありイタコである。

自分の手技を通じて、神の意志、宇宙の魂のメッセージを伝える触媒である。

神と交信しながら、絵を描くべきである。

自分の意図と神の意志が合わさって初めてそれは芸術となり得る。

自分の作品について、説明出来るものと、説明できない何かの両方がある。

それが芸術作品になる。

2016年4月6日水曜日

「夜明けの岸」Beach in the dawn


「夜明けの岸」Beach in the dawn
410x318(F6) / Oil on Panel / 2016 / Chihiro SATO


寄せる
踊る
戻る
沈む
惑う
光る
弾ける
凪ぐ
何度も何度も

Swaying
dancing
going back
sinking
losing way
shining
popping
calming
again and again

240,000(仮縁付き)

2016年4月5日火曜日

何を描くかではなく、何が見えるかだ

何を描こうかと思ってしまえば、描くことは苦しみになってしまう。

大切なことは、何を描くかではなく、筆を動かした先に何が見えるかだ。

今まで40年間描いてきて、会心の出来は例外なく、何を描いたかではなく、描いた先に何かが見えて、導かれるままに描いたものだった。

だからとにかくまず、筆を動かし、色を乗せる。
考えるのはその後だ。

2016年4月4日月曜日

「春景」Spring scene


「春景(Spring Scene)」
227x158(SM)/Oil on canvas/2016/Chihiro SATO

柔らかい陽よ
速い雲よ
隠さないでおくれ
いつまでもここを照らして
落ち葉の下に盛り上がる
幼い芽を抱きしめておくれ

40,000
SOLD


輪郭

それは輪郭ではない。
我々の目はモノの境目を輪郭として捉え、外界と物体、物体と物体を区別しようとする。
しかしそれは表層的な境目であって本質の境目ではない。
本質の境目はもっと違うところにあって、私たちはそこを見なくてはならない。
私の線は、そのためのヒントだ。

2016年4月1日金曜日

壁をひとつ越えた

大きな壁、モチーフの問題、描こうとするものの表現の限界。

無心に絵の具を乗せていく。
重ねる。
しばらく置く。
景色が見えてくる。
今まで自分が体験した、どこかでみたもの。
それを思い浮かべてなぞって行く。
心象が浮かび上がる。
モチーフは全て自分の心の中にしまってある。
今まで見たもの、感じたもの全て。

最初から何かを決めて描こうとするから苦しい。
浮かび上がってくる景色に素直に従う。

自分の心象全てがモチーフになる。
写真を撮ってそれとにらめっこする必要もない。

ただただ感じるままに。
ありがとう。神様。

2016年3月30日水曜日

一晩の神の手

色と色を重ね合わせる。
どうも判然としない。
心の中でしっくりいかない。

一晩経つ。

同じ場所を見る。

素晴らしいコントラストにはっとする。

明らかに、一晩のうちに何かが起こって、色が変化し、重ね合わせが違う色を生み出している。

溶剤が硬化したからなのか
それとも何かの科学変化が起きたのだろうか?

神の手だろうか?

何れにしても、その変化が、次の一手の大きなヒントになっていることは間違いない。
油彩における絵描きの一手はこうしていつも神によって助けられている。

2016年3月29日火曜日

新しい表現方法


2月の半ば、筆で感情に任せて描いたものの、この先どうしょうもないと感じていた絵に絵の具を垂らし、パレットナイフでごたごたしてるうちに、街の風景が出てきた。

これはと思い描き進めているうちに、とても良い感じに空気感というか、奥行きが出てきた。
最後に黒と藍と白で陰影や輪郭を整える。

意図とシャマンモードの一致。
久しぶりに来た。

この表現だ、欲しかったのは。

これを再生できるだろうか。

例えば同じような色が続く空、森、葉、地面はどうなる?
もっと洗練された陰影はできないか?

どこまで意図し、どこまでを神の意志に任せる?