2012年4月15日日曜日

他律的規範からの脱却

私は、思春期の時に体験した2つ3つの出来事がきっかけで、決して他者に対して正義(Justice)を振りかざす様な人間にだけはなるまいと心に誓った事があります。
ただそういう生き方を選択すると、どうしても「生き方」だとか、「哲学」ということの勉強からは逃れられなくなるという事に直面し、当時はかなり困りました。だからいろんなことを考えるようになりました。

しかしそのおかげで、正義とは相対的なものであり変容するものであるという結論に、人よりはかなり早く至ることができました。
その基本思想は今でも全く変わっていません。



そういうことについて考え続け、検証を試みて今思う事のなかの一つに、人間というのは規範なくしては生きられない生き物なのだということがあります。
もし完全な自由を与えられ、何をしてもいいという状況におかれたとしても、やはりほとんどの人は、自ら進んで規範を作ってしまうことでしょう。そしてその規範の枠内で生きようとするでしょう。
それは集団がどうとかと関係なく、完全なる個の状態での生命維持や恒常性(ホメオスタシス)に関わるほど重要な問題だからです。ホメオスタシスそのものが規範を要求するのです。規範を失った人間は命の存続すらできないのです。このことは摩訶不思議な現象です。


人間の精神や魂の構造が、律動性や規則性に満ちているという事にも関係あるのでしょう。その律動性は常に自律的に働きます。それは自己がその規律を受け入れているからです。生命に関する全てのエネルギーは、自律的律動と関係があります。


しかし、残念ながら全ての規範が自律的律動に繋がるというわけではありません。

わたしたちを取り巻く環境には様々な規範があります。その中には、自分の誕生以前からそこに存在しているものがあります。その一部は他律的律動を生むことがあります。

私達は普段、規範について、正義、ルール、マナー、道徳などという言葉で呼んでいます。法の正義もその中に含まれます。
日常の規範はお互いに複雑に絡み合っています。法律、常識、取り決め、契約、不文律、伝統、あうんの呼吸、世代の共有意識 e.t.c.e.t.c. 
これらの多くは、自己が存在する以前からそこに「ある」とされているものです。概ね他律的ですが、私達は教育やしつけによってその規範を学び、自分の中に受容し取り込む訓練を行います。


これらの一部は、自律的律動を呼び起こす自律的規範として自己の中に生成されます。
別の一部は他律的規範のまま他律的律動を自己の体内(精神や魂)に生成します。



自律的規範に成長した規範は伝統的な思考方法や共有する社会意識として働きます。
拡大していくと、国民性や民族性として働きます。


もう一方の他律的規範は、不合理的規範に変化します。放置しておくと自己の中に矛盾を引き起こし、怒り、反発、闘争、破戒などを生みます。これが法的規範と矛盾した場合には、犯罪となります。



私達の多くは普段、規範が絡み合う集合体に抵触しないように気をつけることで、社会性を保とうとします。
また一方では、そこから逸脱しても良いと自己が考える規範からは、積極的に自由であろうとします。
それが社会的にどうであるかを、ある人は深く考え、またある人はあまり深く考えずに判断し、社会から逸脱する行為を、多かれ少なかれ誰でも試行しようとします。いずれにしても、他律的規範からの逸脱は、それを破る価値と社会性の価値とが天秤にかけられます。
規範の逸脱の全てには、目的があります。目的のない逸脱はありません。

ホメオスタシスを超え、自我欲求が規範を超えた時、それは逸脱されます。それは、自己の精神性の自立、自己実現、創造性、自己の存在の合理性追求と密接に関係しています。
つまり、闇雲に規範を破りたいのではなく、社会的な存在としての自己を超え、より自立した合理性を求めるための向上心、冒険心がそうさせるのです。

人間は、規範を作ってまでも自己を律動させたい本能と、既存の規範を破ってより違う自己を創りあげたいという、自己自立の本能も兼ね備えているわけです。

他律的規範に沿い続けることは、自立を阻害します。自立が阻害された精神は氣の乱れを生じ、争いや不健康を生みます。逆に自立した精神つまり自律的規範によって育まれた精神は健康とさらなる積極性をもたらします。

他律的規範に対しては、それを受容し自律的規範に変えてしまうか、さもなくば規律から脱却し、自ら打ち立てた規律に沿って生きるかの二者択一になります。
他律的律動に、唯々諾々と動かされたままの精神や魂というのは、ホメオスタシス的にも不合理であり、精神の自立もできていない状態です。

自立できない精神は、自己が他律的に動かされている規範の強制を、他者に対しても行う様に動きます。
自分が厳しく律している規範を、他者が守らなかった時に、怒りや糾弾の感情が生まれます。そうした精神には、常に氣の乱れが生じています。氣の乱れは精神の健康や発展を阻害してしまいます。それは他者に対する強制によって生じるトラブルよりも、自分の健康への悪影響の方がより大きく心配されます。憤死すら起こします。





ですから私達には、自ら進んで選んだ規範に沿い、望まない規範は破棄し変えていく取捨選択の能力が、日常的に必要なのです。



新しい物の創造や発見には、常に規範の破棄と変化が伴っています。

その時に起きる規範の破棄や変化は、物事を人間性の劣化ではなく進化に繋げなくてはなりませんが、必ずしもそれが常にそうされるとは限りません。

「進化の方向に破棄しなければならない」ということもまた、規範のひとつに過ぎません。


規範の破棄には、摩擦、あるいは不条理というものがつきまといます。
どんなに小さな規範でさえも、それを一度破棄すると決心してしまえば、社会への不適合の可能性が生じます。それは程度の問題です。どんなに小さな規範であってもです。

不条理の受容についての問題は、より哲学的な問題になってしまいますので、ここでは割愛しますが、例えばもしそれを、「抵抗」というふうに言い換えてしまえば、合理的な自己実現(改善)や創造性の発揮の妨げになるようなものではありません。
「抵抗はつきものだ」ということです。

自らを打ち立てるためには、自律的規範の拡大と、他律的規範の破棄と、新たなる自己規範の確立がどうしても必要です。そして不条理と面と向きあう事が必要です。

自己規範とは何か。考えぬいて、考えぬいて、自立して生きてください。

私も常にその覚悟を持って、生きます。

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