2012年2月23日木曜日

モーツァルト交響曲第40番・41番(ジュピター)/カール・ベーム&BPO





今回の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。文体等がいつもと違いますが、そのまま転載致します。ご容赦下さい。

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モーツァルト交響曲第40番・41番(ジュピター)/カール・ベーム/ベルリン・フィル/グラモフォン/1961年録音/ステレオ/LP


カール・ベームの録音はあまり持っていないのだけれど、よりによってモーツァルトの40番と41番を持っている。しかもLPで。あとは、ブルックナーの4番。
おそらくCDを探しても他の作曲家のベームは出てこないんじゃないかな。


で、そもそもモーツァルト自体が、他に交響曲25,29,31と、あとはレクイエムとかアイネ・クライネとか、そんなぐらいしかない。

基本的にキライなんだモーツァルト(笑)

なんでかというと、まず子供の頃から、モーツァルトをイヤと言うほど聴かされ弾かされ飽き飽きしてること。弾いてもちっとも面白くなかった。バッハは何度でも繰り返し練習できたけれど(バッハもいい加減機械みたいだけど)、モーツァルトは熟達しないうちに飽きる。

飽きるから練習が嫌になる。嫌だと上達しない。グダググダになって、母からピアノのさじを投げられた。

バロックでもない、古典派でもない、イタリア風でもない、なんだか宙ぶらりんな音楽性。

アマデウスという映画があったけれど、あんなフィクションだらけでモーツァルトをコケにした映画だったけれど、僕はあれを見に行って「これはモーツァルトの本質をついている!」と思った。

あの映画の中で、アマデウスはサリエリをおちょくって自分風の編曲をする。そうすると、退屈で仕方がなかったサリエリの宮廷音楽が、途端にきらびやかな小品に変身するのだ。

当時の人たちが賞賛しなかった訳がない。

そして同時に、モーツァルトは「それが全て」なんだと気づいた。

きらきら星変奏曲(K.265)に代表されるように、トリルやシンコペーションなど、いわゆる当時としてはJAZZYで速弾きであっと驚かせる妙技のような印象、盛り上がりの時にはすぐに16分音符の連発、メロディは美しいが美しいだけで何も戻ってこない精神性の薄さなど、とにかく何もかもイヤ。

悪口ばっかりになってしまった。

モーツァルトが偉大な作曲家であることに疑いはない。
要するにこれは僕自身の終わらない葛藤なのだ。

こんなにわかりやすい親しみやすい音楽を書く人なのに、僕自身が近づけない。

で、そんなモーツァルトコンプレックスの僕に少しだけ光を差し込んでくれたのがベームだった。

何しろモーツァルト特有の、あの軽やかさがない。キラキラもない。まるでブラームスがハイドンのオマージュでもしているような、威厳たっぷりで、何か規則でもあるような、深く考えているような、そんな「好感が持てる」モーツァルトなのだ。
つまり、カール・ベームのモーツァルトは、全くもってモーツァルトらしくないわけです。
(ベームはモーツァルトの第一人者ですw)
特に41番(ジュピター)は、「ああ、ジュピターって、名曲だったんだね」と思える。
このベームの録音は評判が高くて、CDにもなって手に入りやすい。

たぶん、ピリオド楽器とミーントーンなど、当時の編成で聴けば、モーツァルトももう少し僕の耳に入ってきてくれるのかもしれないけれど、そんな懲り方をしてせっかくのBPOやVPOを逃してしまうよりは、カール・ベームのような人が振ったモダン楽器による演奏を聴いて、モーツァルトに少しだけ近づきたい。

そうはいっても、基本的に興味がないので、なかなかCDも増えなくて、未だにモーツァルトは初心者なのです。



Youtubeの映像
http://youtu.be/sZHKJQdB_Ng




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