2012年2月29日水曜日

ショパン24の練習曲/ウラジミール・アシュケナージ


ショパン24の練習曲/ウラジミール・アシュケナージ/LONDON/1972年録音/LP


一言で言えば、若き日のアシュケナージの、驚嘆のショパン。
僕は誰のショパンも聴かなくていいが、アシュケナージだけは聴いていたい。




と、そういうことを言うと、というかショパンを聴く度、思い出すことがある。
苦い思い出だ。
ショパンが原因で、あるブーニンファンの年下の女の子を泣かせてしまったのだ。


話は簡単で、要するに僕が大人げなかっただけだ。
あんまりブーニンブーニン言うから、ブーニンを思い切り否定しちゃったのだ。


別に本気で否定していた訳ではない。
ブーニンは天才的ピアニストだ。
なんといったって、史上最年少でショパン・コンクールに優勝している人だ。

ブーニンの演奏は1〜2度テレビで見ただけだったが、あまり好みとは言えなかった。
単純に、好みでなかっただけだ。


折しもブーニンブームが日本中に吹き荒れていた。
ブーニンを知らない事はクラシックを知らないに等しく、ブーニン以外にピアニストはいないと言ってもいいぐらいの勢いだった。

テニス、ラグビー、スキーの次にブーニンという女の子のブーム。ブーニンの次辺りがF1。かならず象徴的なアイドルがいる。
で、アイドル無き後、あるいは彼女達が飽きた時、通った跡には草も生えない。
日本におけるF1の終焉日とはすなわちセナの亡くなった日である。




もちろん彼女もその例にもれなかった。
そして僕はそんなミーハーな風潮に辟易していた。



「ブーニンのショパンは、他のピアニストとは全く世界が違う。ダイナミックで情熱的で、こんなショパンは今まで体験したことがない。これこそがショパンだ。」

という、彼女のブーニン評は決して間違っている訳ではない。
ブーニンの解釈は、おそらくロマン派、特にロシア人の気質でのロマン派の解釈の一つの主流であるような気がする。
チャイコフスキーならそれでもいいかもしれない。

だが、そのぐらいでブーニン礼賛に与するわけにはいかない。

だから
「ふーん、ブーニンよく知らない。ピアニストでそんなに違わないでしょ。ショパンは誰が弾いたってショパンだし、ベートーベンは誰が弾いたってベートーベンだし。」
と言った。(恣意的)

逆鱗に触れた。
「かっわっるっよおー!!!」
それから彼女は、僕のことを「音楽の事を何も分かってない人だ」と言った。


ブーニン…。
情熱的か?情熱的だと思う。
ダイナミックか?ダイナミックだと思う。
自由か?もちろん自由だと思う。

確かに中村紘子に比べれば、より情熱的でダイナミックで自由かもしれない。
けれども、ブーニンの当時のパワーや自由さは
若さと引換えに手にしているものも、かなり大きかったように思う。

それは単純に好みの問題だ。
ブーニン以外にもたくさんピアニストはいる。
要するにブーニン以外も聴いたことあって、ブーニン言ってるのかと。
単にステージで金髪を振り乱している眼鏡男子に見とれてるだけじゃないのかと。
完全にヤキモチですね。


ウラジミール・アシュケナージという同じソ連出身の天才ピアニストがいる。
彼もまた、ダイナミックな演奏で知られる。
しかもアシュケナージは、ブーニンをはるかに超えるダイナミックさに加えて
完璧なテクニックと緻密さと美しさでしっかりとコントロールされている。
だからエネルギーがまっすぐ飛んでくる。
ブーニンのように、ロマンチックにあっちに行ったりこっちに行ったりしない。

今も昔も、当時のブーニンのような奇抜な演奏をするピアニストはいた。
ただ、ブーニンの自由奔放さは、際立っていた。
けれども僕にとっては、そのことが決して目新しいものとは思わなかった。
ロマン派って、いつかはきっと、そうなるよね。
それはそれでいい。

ブーニンがダメなのではなく、ブーニンだけが偉いのでもなくて
好き好きでいいのだ。

けれども、あまりのブーニン礼賛と、僕を音痴扱いした事への腹いせに
皮肉を込めてこんなことを言ってしまった。

「楽譜通り弾け、作曲家の意図を汲め。ブーニンが弾いただけでそれほどまでに価値が変わるのなら、それはもはやショパンの曲ではなく、ブーニン作曲だ。」


いや大人げない。


ブーニンは天才的ピアニストであると同時に、彼女らにとってはピアノを弾く貴公子、アイドルなのだ。アイドルを否定してはいけない。
あの頃、日本の女の子にとって、ブーニンのショパンは天の調べであり、雨音はショパンの調べ(小林麻美)だった。




で、そんな僕がアシュケナージ礼賛である。
他人のことなんか言えないのである。

アシュケナージのショパンのエチュード。練習曲という名前だけれど、内容はスゴイ。ショパン自身が、「誰にも弾けないだろう」と言いながら作ってた曲集なくらいだから。


1曲目(Etude op.10 No.1)からぶっ飛ぶ。テクニックもスゴイけど、アシュケナージの表現力が素晴らしい。パワーと繊細さが涼しい顔で同居している。


Youtubeで、若い頃のアシュケナージの演奏と、だいたい同世代ぐらい(もう少し上かな)の時のブーニンの演奏を聞き比べてみよう。


アシュケナージ
http://youtu.be/WpZr_cbYbXo
ちょっとこれはライブで音質も悪くやや粗さが目立つものの、音の粒ははっきりしていて、十分パワフルで強弱がはっきりしている。こんなに速く強いのに、コントロールが全くブレない。要するにドライブしている。ちなみにレコード(スタジオ録音)では、これよりももっと速く、繊細さとパワフルさが高度にマッチしている。ペダルの使い方が本当に絶妙だ。

ブーニン
http://youtu.be/X46CEMEZB-0
若い時に比べて、ずっと柔らかくてたおやかな演奏になっているが、彼独特の緩急は健在。というか、極端になってる?彼ならではのショパンは情緒性に富んでいてとてもナイーブな魅力がある。

好き嫌いは分かれると思う。
僕は圧倒的にアシュケナージの方が好きだ。
そして、女性がブーニンが好きだというのもよく分かる。

ただ、この曲は、運指の難しさ故か、多くのピアニストの場合、ペダル多用やテンポ変化でリズムの乱れをごまかすような演奏が多い気がする。良く言えば緩急。悪く言えば千鳥足。使い過ぎるとバターみたいに胸焼けがしてくる。

ショパンがロマン派のピアニストだからといって、やけにナイーブにロマンチックに弾くのはなぜ?
ベートーベンが、繊細な曲も叩きつけるような曲も書いているのに、ショパンだけなぜナイーブで物言いたげに終始するのか。僕がロマン派ピアニストの気持ちが分からないのは、そこなのだ。

残念ながら、ブーニンのそれもそのように聴こえる。

超速弾きのピアニストの場合だと、今度は強弱がなくて、繊細なだけの音になるか、シーケンサーみたいになってしまっているのもある。
でもどちらにせよ音の粒が見えない。リヒテルやルービンシュタインでさえ、音が濁っている。

アシュケナージのような演奏をするピアニストを探すのはとても難しい。アシュケナージの場合、次の様な特徴がある。超絶技巧を要する曲にも関わらず、非常に強いフォルテ。それでも音が潰れない、濁らない。アンビエントの縦横無尽さ。サスティンペダルを使っても音の粒が全部聴ける。ピアノの音が踊っている。ドライブしている。拍が正確で忠実。その上に豊かな感情表現が乗っかっている。だから気持ちがいいのだ。

『アシュケナージだからって、そんなに変わるものかなあ。』と思うかどうかは、もちろん自由です。







2012年2月28日火曜日

ブラームス交響曲第一番ハ短調作品68/カラヤン/VPO





ブラームス交響曲第一番ハ短調作品68/ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団/Ace of Diamonds (Decca)1959年録音/LP

カラヤンとウィーン・フィルの、モダンで洗練された素晴らしいブラームス1番。本当に名盤だと思う。音も素晴らしい。
なのに、ジャケットの絵は、一体コリャ何だ?いや、若い頃のブラームスと、クララ・シューマンを描いたんだろうぐらいは容易に予想は付くけど、もう少しどうにかならなかったのだろうか。。。ちなみにクレジットには「デッカのパブリシティアート部門がデザイン」とある。

YouTube
録音と同時期の、来日公演のカラヤン。第四楽章の冒頭。

ブラームスの交響曲第1番は、「ベートーベンの第10番」とも言われている名交響曲。ブラームスはこの人生最初の交響曲を発表するまで、なんと20年以上も費やしている。彼の慎重な性格だけでなく、ベートーベンを崇拝~意識するあまりプレッシャーがきつくてなかなか出せなかったとも言われる。第一楽章の序奏が後からつけられてやっとこの交響曲は完成するが、第一楽章のアレグロに入ってからは、もう二度と動機でも主題としても繰り返されないこの序奏が、まさにこの交響曲のアンカーとして重要な意味を持ち、最終楽章のクライマックスをより感動的なものにしている。「暗から明へ」というこの曲に流れるテーマは、ベートーベンの第五番(運命)や第九番「合唱」の「苦悩から歓喜へ」のオマージュでもある。

YouTube
カラヤン&BPOによる、第一楽章の有名な序章。

2012年2月27日月曜日

鳥としての私


「鳥としての私」
F8・油彩・キャンバス・2011〜2012・佐藤千洋(ChihiroSatow)

ブラームス交響曲第4番/ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル


ブラームス交響曲第4番ホ短調作品98/エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団/Victor(Melodiya)/1973年録音(ライブ)/LP

世の高評価に反して、僕はブラームスの4番はあまり好きではなかった。と同時に、世の高評価を得ているムラヴィンスキーの指揮する、例えばチャイコフスキーも、あんまりピンと来ない。

でも、このムラヴィンスキー+ブラームス4番に関しては全く違う。
「おおお!ブラームスのやりたかった事ってこういうことか!」と納得できる、会心の演奏だ。
これで僕は「ムラヴィンスキーってスゴイ指揮者だったんだ!」と初めて実感できた。

でも、実はこのライブ盤の評判も、改めていろいろ調べていくとどうも今ひとつらしい。
ユニークだがいまいちとか、薄いとか、妙な高揚感とか、あまりいい感想を聞かない。
僕の感覚とは逆のようだ。

敢えて言いたいが、ムラヴィンスキーのブラ4は、最高だ。

他の著名な指揮者、例えばカラヤンでさえ、メランコリックで散発的で、柔和すぎる。バーンスタインに至っては、申し訳ないがもはやナヨナヨしすぎて、何をかいわんやだ。もっと大御所の指揮した演奏も、ただドラマチックなだけで響いてくるものは少ない。

ブラームスの交響曲は、1番から4番まで全体的に短い休符が多くて、その後に次の展開が突如としてわーっとやってくるために、ただ聴いているといろいろ唐突な印象がある。
それをロマン派的に、逍遥や迷いや葛藤のようなものとして、テンポを変えちゃったりして弾かれると、もう何がなんだか分からなくなる。

ブラームスは、この交響曲で、明らかに集大成を成し遂げているはずだ。そこにメランコリックな迷いがあっていいはずがない。

「頼むから普通に弾いてくれ!」と叫びたくなるような演奏が多いのが、ブラ4なのだ。

ムラヴィンスキーは、その辺、ブラームスの意図を十二分に汲み取っているように思える。
厳格なまでにテンポをキープし、妙な抑揚をつけずに、淡々と進む。その中に時折ピークがある。
それが全体を通した時、初めて「何がそこに流れていたのか?」が分かる。

筋がピンと一本、全体の流れに通った演奏だ。あっちいったりこっちいったりしない。
悲劇からの回復、決意、達観、飛翔。迷いがない。これはドラマ音楽ではなく、賛美歌なのだ。


第一楽章のシンプルで達観した情景、第二楽章や第三楽章の規律と歯切れの良さ、そして第四楽章の出だしの芯の太さ、全てがテンポ感に溢れ、それがブラームスの曲を活かしている。沈んでいながら、厳格で、淡々と孤高に向かって進んでいるような演奏こそが、この交響曲の解釈にふさわしいと思う。




Youtube
ブラ4リハ風景と解説(解釈やこの曲に対するムラヴィンスキーの思いなど)

http://youtu.be/aaqQL8poWkU

ムラヴィンスキーはとにかく厳格な指揮者で、偉大な教育者でもあったとレニングラード・フィルの団員達は証言している。
このリハ映像でも、とにかくテンポやリズム、キレに対して厳しく注文しているのが見える。

2012年2月25日土曜日

ヴィヴァルディ「四季」/ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィル



ヴィヴァルディ合奏協奏曲「四季」/ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニーオーケストラ/ミシェル・シュヴァルベ バイオリン/グラモフォン/1972年録音/LP

もう何百回と聴いたVivaldiの四季。
にしても、カラヤンの四季というのはとても珍しい。
曲調がまるっきり違う。ドラマチックで、イタリアンバロックというよりも
「夏」の嵐の部分など、まるでベートーベンみたいだ(笑)
「ハイ、あなたの大好きなバロックでござい」というようなイヤったらしさがない。すっと入ってくる。

カラヤンという人は、大衆受けとかタレントとか言われたりアンチも未だに多いけど、なんだかんだ言ってもやっぱり天才。特に解釈に関しては「音楽だけやってる人」とは違う、全人的なものに満ち溢れているものが多いと、僕は思う。


それにしてもこのレコードは特に音が素晴らしい。
僕の安いセットで聴いていても、ソリストのボウイングの返しのかすかな音まで分かる。
チェロやバスの唸りも素晴らしい。
CDやシリコンオーディオばかり聴いているとすっかり忘れている感覚。

グラモフォンやLONDON(旧DECCA)のレコードはおしなべて、どんなレコードも無理に盤ギリギリまで録音を入れてないというところがいい。
内周歪みという、アナログレコードの宿命があって、レコードの終わり(中心)に近づくと音が段々歪んでくるものだけれど、グラモフォンやLOMDONでそういう歪みを体験することは比較的少ない。


YouTube
問題の「夏 三楽章 Presto」
http://youtu.be/Obo4ewznBLM

2012年2月24日金曜日

「街と果物」

「街と果物」
F10・油彩・キャンバス・2011/9・佐藤千洋(ChihiroSatow)

放埒2011


「伝聞や過去で人を判断することから自らを解き放ち真の自助を手にするための放埒」

F10・油彩・キャンバス・2011/6・佐藤千洋(ChihiroSatow)


ブラームス交響曲第2番/ヴォルフガング・サヴァリッシュ/ウィーン交響楽団


ブラームス交響曲第2番/ヴォルフガング・サヴァリッシュ/ウィーン交響楽団/fontana/1959年録音/LP

サヴァリッシュ36歳の時の指揮。第一楽章の出だし、管が今ひとつ。ブラームスの二番は、管が命なんだけど。でも全体的には伸びやかで、これはこれでいい。最終楽章のフィナーレも素晴らしい。ちなみに管の実力No.1なウィーン・フィル(VPO)ではなく、ウィーン・シンフォニー(VSO)。

YouTube
サヴァリッシュもVSOもなかったので、クライバーとVPO
http://youtu.be/_kfxAlWqwvk

ベートーベンピアノソナタ No.5, No.6, No.15(Pastoral)/ウラジミール・アシュケナージ





ベートーベンピアノソナタ No.5, No.6, No.15(Pastoral)/ウラジミール・アシュケナージ/LONDON(キング)/1976年録音/LP

美しい。
YouTube
15番、アシュケナージのがなかったので、バレンボイムで。
http://youtu.be/pYkvP_iGjWM




バレンボイムもそうだが、ベートーベンのピアノの解釈というのには、力強くて、技巧的で、抑揚が激しく、自己顕示に満ちているという演奏が多いような気がする。


それは一面ではとてもよく当たっていると思う。
でも、それだけでベートーベンを聴いていると、段々、彼が聴かせようとしていたものが見えなくなる気がする。若いころのベートーベンは非常に技巧派でピアニストとして名を馳せていたという。しかし上記のような姿はもっと晩年になってから、そして「外に出ている面」だけであったような気がする。


創作をしている人なら分かると思うけれど、どんなに激しい性格であったとしても、制作している時、インスピレーションを受けている時の自分というのは、とてつもない静寂に包まれているものだ。


そして、ベートーベンの優れた創作も、そのような境地で生み出されたに違いないと思われるモチーフや主題がたくさんある。


ピアノを叩きつけるような演奏ばかりがベートーベンではなく、後のロマン派にも通じる精神の高揚やメランコリーがある。


そしてフォルテシモの中には、明らかに瞑想状態で生み出されたのではないのだろうか?と思われるフレーズがいくらでも出てくるのだ。


アシュケナージの演奏は、そういった深い静寂の中で生み出されるフォルテシモがあって、聴いていてしっくりくる。

シューベルトピアノソナタD840(Cmaj未完成)、D900(Cm)、D.644(A)/ウィルヘルム・ケンプ





シューベルトピアノソナタD840(Cmaj未完成)、D900(Cm)、D.644(A)/ウィルヘルム・ケンプ/グラモフォン/1967年録音/LP


イ長調D.644は特に素晴らしい。
Youtube
http://youtu.be/5oQlWaAmPQQ

2012年2月23日木曜日

ベートーベンピアノソナタNo.4, 9, 10/ウラジミール・アシュケナージ


ベートーベンピアノソナタNo.4, 9, 10/ウラジミール・アシュケナージ/LONDON(キング)/1979年録音/LP


アシュケナージ若い!1979年の録音で、発売は1981年。今、彼は御年74歳。
彼はDecca〜London時代を通じて、ベートーベンのソナタをコンプリートしている。


ベートーベンのソナタはケンプやバレンボイム、リヒテルをはじめとして7〜8人のがあるが、一番聴くのはCDのバレンボイムの全集(CDだと気軽にかけられるのでつい)と、アシュケナージだ。好きなのはアシュケナージの方。残念ながら、アシュケナージは全曲はない。バレンボイムは、いわゆるベートーベンっぽさががんがん伝わるが、アシュケナージのソナタは、軽やかでとても美しい。


Youtube
http://youtu.be/zDuVyxYjfMc

A French Program(近代フランスピアノ小品集)/アルトゥール・ルービンシュタイン



A French Program(近代フランスピアノ小品集)/アルトゥール・ルービンシュタイン/RCA/1960年代初期
ラヴェル、プーランク、フォーレ、シャブリエ 計7曲。

ルービンシュタインといえばショパンと直結するけれど、意外なフランス人作曲家のピアノ小品集。CDにはドビュッシーも入っているが、LPはドビュッシーとこの小品集は別になっている。

モーツァルト交響曲第40番・41番(ジュピター)/カール・ベーム&BPO





今回の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。文体等がいつもと違いますが、そのまま転載致します。ご容赦下さい。

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モーツァルト交響曲第40番・41番(ジュピター)/カール・ベーム/ベルリン・フィル/グラモフォン/1961年録音/ステレオ/LP


カール・ベームの録音はあまり持っていないのだけれど、よりによってモーツァルトの40番と41番を持っている。しかもLPで。あとは、ブルックナーの4番。
おそらくCDを探しても他の作曲家のベームは出てこないんじゃないかな。


で、そもそもモーツァルト自体が、他に交響曲25,29,31と、あとはレクイエムとかアイネ・クライネとか、そんなぐらいしかない。

基本的にキライなんだモーツァルト(笑)

なんでかというと、まず子供の頃から、モーツァルトをイヤと言うほど聴かされ弾かされ飽き飽きしてること。弾いてもちっとも面白くなかった。バッハは何度でも繰り返し練習できたけれど(バッハもいい加減機械みたいだけど)、モーツァルトは熟達しないうちに飽きる。

飽きるから練習が嫌になる。嫌だと上達しない。グダググダになって、母からピアノのさじを投げられた。

バロックでもない、古典派でもない、イタリア風でもない、なんだか宙ぶらりんな音楽性。

アマデウスという映画があったけれど、あんなフィクションだらけでモーツァルトをコケにした映画だったけれど、僕はあれを見に行って「これはモーツァルトの本質をついている!」と思った。

あの映画の中で、アマデウスはサリエリをおちょくって自分風の編曲をする。そうすると、退屈で仕方がなかったサリエリの宮廷音楽が、途端にきらびやかな小品に変身するのだ。

当時の人たちが賞賛しなかった訳がない。

そして同時に、モーツァルトは「それが全て」なんだと気づいた。

きらきら星変奏曲(K.265)に代表されるように、トリルやシンコペーションなど、いわゆる当時としてはJAZZYで速弾きであっと驚かせる妙技のような印象、盛り上がりの時にはすぐに16分音符の連発、メロディは美しいが美しいだけで何も戻ってこない精神性の薄さなど、とにかく何もかもイヤ。

悪口ばっかりになってしまった。

モーツァルトが偉大な作曲家であることに疑いはない。
要するにこれは僕自身の終わらない葛藤なのだ。

こんなにわかりやすい親しみやすい音楽を書く人なのに、僕自身が近づけない。

で、そんなモーツァルトコンプレックスの僕に少しだけ光を差し込んでくれたのがベームだった。

何しろモーツァルト特有の、あの軽やかさがない。キラキラもない。まるでブラームスがハイドンのオマージュでもしているような、威厳たっぷりで、何か規則でもあるような、深く考えているような、そんな「好感が持てる」モーツァルトなのだ。
つまり、カール・ベームのモーツァルトは、全くもってモーツァルトらしくないわけです。
(ベームはモーツァルトの第一人者ですw)
特に41番(ジュピター)は、「ああ、ジュピターって、名曲だったんだね」と思える。
このベームの録音は評判が高くて、CDにもなって手に入りやすい。

たぶん、ピリオド楽器とミーントーンなど、当時の編成で聴けば、モーツァルトももう少し僕の耳に入ってきてくれるのかもしれないけれど、そんな懲り方をしてせっかくのBPOやVPOを逃してしまうよりは、カール・ベームのような人が振ったモダン楽器による演奏を聴いて、モーツァルトに少しだけ近づきたい。

そうはいっても、基本的に興味がないので、なかなかCDも増えなくて、未だにモーツァルトは初心者なのです。



Youtubeの映像
http://youtu.be/sZHKJQdB_Ng




2012年2月22日水曜日

ベートーベン交響曲第5番(+シューベルト交響曲第8番「未完成(Unfinished)/ウィルヘルム・フルトヴェングラー/ウィーン・フィル


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ベートーベン交響曲第5番(+シューベルト交響曲第8番「未完成(Unfinished)/ウィルヘルム・フルトヴェングラー/ウィーン・フィル/EMI/1954年録音/ステレオ(擬似)

最晩年にフルトヴェングラーがウィーン・フィルと録音した「運命」があった。もちろん録音当時のレコードではなく復刻版でBest100だし、CDでも出てるし擬似ステレオ。だけど、そんなことはどうでもいい。好きなレコードだ。

運命という曲は誰でも最初の、あの「ジャジャジャジャーン!」という動機を知っているクラシック中のクラシックだけれど、あの動機以外を聴き込んでいる人は意外に少ない。

ベトヲタ(そんな言葉があるかどうか知らないけど)にとっては、楽章ごとに、今で言うなら「萌リフ!」とも言うべき主題が散りばめられてあって、どこをつまんで聴いても「五番!」と分かるぐらいスゴイ曲でもある。

ベートーベンの交響曲は、3,5,7,9は激しくドラマチックで、2,4,6,8は比較的穏やかと言われている。

フルトヴェングラーのこの五番は、激しいとか穏やかとか、そういうのを通り越して、雄大な感じがする。とてもゆっくりなんだけど(最晩年だからなのかもしれないけれど)、なんというか、最晩年なのに「若々しさ」と「飛翔」を感じる。それも荒々しくない。

若さというと、荒削りとか荒々しさとか激しさで表現されがちだけれど、これはなんだろう、他のフルトヴェングラーにありがちな、段々速くなって、もう誰もついて来れないような、あの一気に登りつめる高揚感とはだいぶ違う、広がり感というか、そういうものを感じる。

シューベルトの「未完成」も好きな曲の一つだ。しかしこの2曲は抱き合わせで録音している指揮者が多いなあ。僕が持ってるだけで4枚ぐらいある。ベートーベンの5番がちょうどA面で納まり、B面がシューベルトの8番がB面で納まる。つまり「運命」4楽章分の長さと、「未完成」2楽章分の長さが同じということなんだね。

Youtube(54年のライブ)
http://youtu.be/AXbm-w8jdm4

2012年2月21日火曜日

ベートーベン交響曲第三番「英雄(Eroica)」/パウル・クレツキ/南西ドイツ放送交響楽団



今回の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。文体等がいつもと違いますが、そのまま転載致します。ご容赦下さい。

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ベートーベン交響曲第三番「英雄(Eroica)」/パウル・クレツキー/南西ドイツ放送交響楽団/コンサートホールソサエティ/録音時期不明(50年代?)/ステレオ(擬似?)

大好きなベートーベンの大好きな交響曲。
どれも優劣つけられない。

クレツキの英雄は、不思議な感じ。
英雄な感じがしない。
彼の辿ってきた運命からかもしれない。
そう考えると、よくぞベートーベンを振れるなあと思う。
(クレツキはマーラーとベートーベンで有名な指揮者。ユダヤ人。ドイツ、イタリア、ソ連と亡命先でことごとく迫害を受け、ホロコーストで家族全員を失うという半生を持つ。)

で、「こんな英雄もあるんだなあ」という感想。

知ってるフレーズが出てこなくて、「あれ?違う曲?」と思ったり。


それよりも何よりもコンサートホールはとにかく音が良くなくて、「ステレオ」と書いてあっても、おそらくモノラル盤を適当に振り分けてステレオにしている時代そのまんま。
管が左端の方から聞こえたり、ちょっとファンキーな時代。
それもまたいい。


Youtube
http://youtu.be/h2WaKmzpXRo

ベートーベン交響曲第九番「合唱(Choral)」/ブルーノ・ワルター/コロンビア交響楽団



今回の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。文体等がいつもと違いますが、そのまま転載致します。ご容赦下さい。

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ベートーベン交響曲第九番「合唱(Choral)」/ブルーノ・ワルター/コロンビア交響楽団/CBSソニー/録音1959年/ステレオ

ライナーノーツは、とにかく「名演!」のベタ褒め。
ライブでないのが惜しいと書いてある。
そこまで言われると、針を落とす時にちょっと斜めになっちゃうけど、その通りの素晴らしい演奏。


鑑定本などでは評価が低いみたいだけど、その元になっているのは、合唱部分にパワーが足りないというもの。
でも、最初違和感さえ感じた第三楽章のゆっくりさ加減と、合唱に入ってからの「タメ」、はっきりとした歌詞、聴きとりやすい合唱は、第九が圧倒的なパワーだけじゃないんだということをすごく感じる。


ベートーベンの時代だって、現代のような、まるでもう最後の審判が来るみたいな圧倒的な地球賛歌みたいな音量じゃなかったと思うもの。


これはこれで素晴らしい。そして何より音質がいい。
クリアでまるでCDを聴いているように明瞭。
しかもLP特有の音圧も味わえる。とても1950年代の録音とは思えない、さすがはソニー(CBS)。


Youtube
http://youtu.be/VSa7el8FzRs

2012年2月18日土曜日

街の入り口



「街の入り口」F12・油彩・キャンバス・2012

2012年2月14日火曜日

レコードを洗う


以下の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。

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アナログレコードは古くなると、どうしてもクリーナーだけでは取れない積年のゴミがたまっていきます。チリパチノイズから開放されたい。そういう時は思い切って洗ってしまうのが得策です。アナログレコードは洗えます。

1)水道の水で盤面を濡らす
レーベル部分にはなるべくかからないようにします。多少かかっても時間を置かずに拭けば大丈夫。

2)メラミンフォームを小さく切ったものを、レコードの溝に沿って流水で濡らしながら優しく撫でていきます。点ではなく、面接触になるように、力を入れすぎないように注意。メラミンフォームでは硬すぎるという人もいますが、メラミンフォーム自体の重みや水分での吸い付きに任せている程度なら大丈夫です。アナログレコードのPVという素材は意外に強く、CDよりずっと堅牢です。汚れやゴミがひどい時は、薄めた中性洗剤の液をまんべんなく塗り広げて下さい。メラミンフォームの表面に細かいゴミがついてくるのが分かります。

3)さらにカビや飛沫のあとなど、しつこい汚れには、メラミンフォームで強くこするのではなく、中性洗剤を薄めた液と、デンタル用の毛先の細い歯ブラシで部分洗いします。(普通の硬い歯ブラシはダメです)

4)流水でよくすすいだら、マイクロファイバー(超吸水型)のふきん、不織布、テッシュペーパーのいずれかで水気を取ります。溝に沿って拭くように。僕の経験では、マイクロファイバーがとても威力を発揮してくれます。水と共に溝に残ったゴミを一掃してくれます。

5)これだけで十分、レコードの汚れがとれて、新品のような輝きが復活します。ただし、ルーペで見るとテイッシュやふきんの繊維が残っています。これはレコード用のクリーナーで拭いて、あとは1〜2度ターンテーブルで回してやるとすっかり取れます。水洗いの前と後では、盤面を滑る(起毛式の)レコードクリーナーの滑りが全く違うことが分かると思います。ただし水分が残ったままターンテーブルにかけないように注意して下さい。音は新品同様になるかどうかはレコードそのものの状態によりますが、目に見えないゴミが取り除かれる事で飛躍的に音質回復が望めることは確かです。これでチリパチの8割は解消できます。

2012年2月13日月曜日





ヘンデル合奏協奏曲集作品6/コレギウム・アレウム合奏団/ハルモニア・ムンディ/1975年録音/LP

ピリオド(作曲当時の古楽器)によるヘンデル。

2012年2月7日火曜日

今更のCDとLP都市伝説と氣のせい(FBノートより)

今回の記事は、FaceBookに書いた自分のノートを転載しています。文体等がいつもと違いますが、そのまま転載致します。ご容赦下さい。

ーーー
久しぶりにLPを聴いていたら、どうしても同じ曲をCDとLP(アナログレコード)で聴き比べしたくなった。


(※)
ベートーベンピアノ協奏曲第二番。
CD:指揮、ピアノともバレンボイム、BPO(ベルリン・フィル)、東芝EMI、1985年録音。
LP:カラヤン指揮、BPO、ワイセンベルグのピアノ、東芝EMI、1977年録音。

そして案の定LPの方が断然気持ちがいい。
目隠しテストされても分かるレベル。
感覚的には倍音が違う。
室内に反響する音自体が違うのだ。
そもそも家の中の音が届く範囲が違いすぎる。
この感覚は今に始まった事ではなく、初めてCDが発売された当時から既に感じてはいたことで、このことがCDへのモヤモヤ感がずっと続いている原因となっている。
(出始めのCDは今よりずっと音がしょぼかった。LPマスタリングをそのまま使っていたせいとも言われている)

昔から言われている「CDは不自然でアナログレコードは自然」という都市伝説を実感する瞬間。
つまりは、私もそう思っているということ。

ただ、LPの方が音が良くてCDの方が悪いというのではない。
レコードのチリパチはいつ聞いてもいいものではないし、どことなく音がくぐもっている部分もある。CDの方がクリアはクリアだ。

ただ、気持ちがいいのは明らかにLPレコードの方で、純正律と平均律の違い以上の差を感じる。
だから「気持ちがいい」「倍音が違う」と表現するほかない。

ところで全然関係ないけれど、1970年代のモータウンやフォークは、CDで聴くより、カセットテープにダビングして聴いた方がずっと良く聴こえる。これは自然不自然の問題ではなくて、その当時ラジオから流れてくることを前提に作られている事や、実際に我々がラジオを通して体験した周波数や波形の記憶がそれを「原音」や「時代の記憶と共にあった音」とみなすからだと思っている。

CDとLPの感覚的違いは、これとはかなり異質のもののようだ。明らかに何か鳴っているものが違う。


にわかに興味が出てきて、適当にアナライザソフトをダウンロードして見てみるんだけど、明確な違いはよく分からない。
なにしろフリーのソフトは、CDの限界の22kHzまでしか測れないみたい。入力デバイスの限界もあるし(一応、SureのSM58は使っているけれど、これ自体がそんなに周波数帯が広くないしね)、後から気づいたけれど、録音方法や再生時の針の関係もある。たいていの場合20kHzを基準に構成されているだろう。

ただ、意外なことにというか知られている理屈通りというべきか、CDの音の方は20kHzを境に、21kHz付近まで急激に減衰して殆ど波がなくなる。
対して、LPの方は22kHz近くまでなんとなく音の波が続いているのは少なくとも見て取れる。
もしかすると、ちゃんとしたマイクと、22kHzを超える波を微細に計測できるアナライザを使えば、もっとこの差は大きくなるのかもしれない。
(同じ場所のキャプチャーが取れなかったけれど、だいたい図の様な感じで、0.7〜8kHzの差はキープして推移している)


まあ、それでもわずかな差だけど。
LPは理論上は40kHz付近まで、均一ではないにせよ再現が可能だと言われている。
一方CDは理論上22kHzまで、実際には21kHz程度までしか音が出ないと言われる。
これが本当で、しかも再生されたとしても、人間の聴覚には影響を及ぼさない(はずだ)。
人間の可聴域は、どんなに敏感な人でも20kHzまで。しかもある程度の音圧があっての話。

アナライザで見る、LPの22kHz付近の音圧は、せいぜいどんなに大きくてもコンマ0.01uV巾。
到底耳で感知しているとは思えない。
にも関わらず、こんなにも明確に倍音の差を感じる。
不思議でしょうがない。

気のせい?
いや、確かに氣のせいかも。

気を感じることと、可聴域を超える音を感じ取る事は、とても似てる気がする。
音波として耳が捉える以外に、私達はどこかの感覚器官を使って、それ以外の音や気配を感じ取っている。
それは地震の直前などにもありがちで
音圧に似た地鳴りのような音。聴こえる(感じる)人とそうでない人がいる。
「ゴー」という音がする時もある。
音はせず、圧迫感として感じる時もある。
もっと直接的に「ざわざわ」した感じになる時もある。

雪の降る音が分かる人とそうでない人がいる。
これは音そのものではない。
雪が積もり始めた事で起きる「無音」の状態と、その「感じ」
そして、実際に雪が降り、雪同士や葉と触れ合う「カサカサ」と言う、ほぼ可聴域を超えた「音」
外を歩く人やクルマの音の吸音の具合(でもこれがなくても分かる)
これらのセットで気配的に分かる。

おそらくアナログレコードとCDの音の違いも、そうなんだろう。
そして感じ取れる人と取れない人がいるはずだ。
感じ取る人にとっては、火を見るより明らかで、感じない人にとってはバカげた比較だろう。
「人によって結果が違う」ということは、つまるところどこまでいっても非科学的分野の域は超えないってことだね。
要するにどこまでいってもオカルト話なんだ。

SACDも聴き比べしてみないとなァ。。。