2012年12月18日火曜日

DANAE


「DANAE」/油彩/F50キャンバス(2012)

2012年12月15日土曜日

最近の不具合




1:給油口カバーのノッチがかけてパカパカになった。
2:シフトのパドル(右)が効かなくなって、シフトUpが手元で操作できなくなった。
オマケ:セレスピードオイルゲージ(超重要)が空っぽだった。

イタ車乗りの場合、大抵このぐらいでは動じないのです(そうでもない)。

まあ、樹脂とゴムからいくんです。ヨーロッパの方は。その次あたりにちっちゃなバネ類。

2012年12月6日木曜日

「鳥としての私」



鳥としての私

同じ形の仲間はいなくとも
夜空はけっして闇ではない

草原が風と踊りながら私を鼓舞する
星が森を照らしざわめき手を叩く
もっと高く飛べと
こっちにおいでと

何に向かって飛んでいるのか
何のために翼を動かしているのか
誰のために風に逆らっているのか
海か田んぼか分からなくなっても
上も下も分からなくなっても
私は飛ぶ
鳥は空を飛ぶのだから
2012年12月


絵:「鳥としての私」油彩/キャンバス/F8(2011)



2012年12月5日水曜日

シェーンベルク「浄夜」


シェーンベルク/浄夜/ブーレーズ&ドメーヌミュージカルアンサンブル(1975)



結局のところ、この人は「調性音楽をぶっ壊した」人として歴史に名を残すのでしょう。
しかし「浄夜」は無調性ではありません。そしてリヒャルトデーメルという詩人の詩を題材にした標題音楽です。
シェーンベルクは20世紀の人ですが、この曲はギリギリ19世紀の作品です。
これを聴けば彼が無調性音楽でいたずらにデタラメをやっていたのではないことがわかります。
題材となった詩も素晴らしい。訳詞によってかなり内容の解釈に差は出るのですが、僕の一番好きな訳はとても直訳的なこのレコードのライナーノーツの訳です。他のサイトからコピペすれば良かったのでしょうけれど、変に文学的な意訳よりも、直訳の方がこの詩の本質をよく表しているので、頑張って書きます。



浄夜 (リヒャルト・デーメル)

枯れて冷たい林の間二人が歩いている
月が二人を照らし、彼らはそれを見上げる
高い樫の木の黒い先端が空にそびえ、その上に月が走る
空の輝きを曇らす雲は一つもない
女の声が話す


私は身ごもっていますが、あなたの子供ではない
私は罪を感じてあなたと歩いています
私は私自身をひどく辱めてしまった
私は幸福な未来が信じられなかったが
充実した生命と母としての幸福と義務に
強い憧れを感じていました
そして私はわななきながら、見知らぬ男に身を任せ
それを祝福さえしてしまった
今や生命が私にしかえしをして
今私はあなたに出会ったのです

女はおぼつかない足取りで歩み、空を見上げる
月とともに歩み
彼女の暗い眼差しは光のなかに溶ける

男の声が話す
あなたの身ごもっている子供は
あなたの魂の重荷ではない
世界がどんなに明るく輝いているか、ごらんなさい
すべてのまわりに輝きがある
私たちは冷たい海の上をただよっているが
私からあなたに、そしてあなたから私に
暖かさが直接伝わってくる
それは他人の子供を清め
あなたはその子供を私のために生むでしょう
あなたは私に輝きをもたらした
あなたは私を子ども自身にしてしまった

彼は女の腰をつよくだきしめ
彼らの呼吸は風のなかで口付けを交わす
二人は清められた明るい夜に歩いてゆく




ズービン・メータ&VPOの浄夜
http://youtu.be/B-ii8JMPUxc

2012年11月28日水曜日

マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」



マーラー交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」/サー・ゲオルグ・ショルティ指揮/キリ・テ・カナワ(ソプラノ)/シカゴ交響楽団/LONDON(ポリドール)/1983年録音/LP


マーラーにしては珍しく、全編希望に溢れた交響曲です。


マーラーの4番は不思議な魅力を持っています。

「好きか?」と言われると首を傾げてしまうのだけれど、何も考えたくないけれどアタマの中が空っぽにしたくてもできないような時になぜか聴きたくなるのです。マーラーなのに、です。
この曲が頭の中を占領すると、なぜか気持ちがゆったりとしてきます。
4番は、全体的に恣意的で耳に触る事もあるマーラーの交響曲の中にあって、音楽と正面から向き合わなくても音楽の世界に入っていける楽さがあります。


マーラーは5番のあの有名なアダージェットといい、多くの交響曲の中で緩徐楽章に素晴らしく美しい曲があります。
どんなに希望がなく激しく皮肉に満ちた曲でも緩徐楽章だけは例外なく美しい。

この4番も、第三楽章がとても美しい旋律です。
こんなふうに→ 








そして第4楽章は突然ソプラノの独唱による歌曲になります。


マーラーは交響曲の2番から交響曲に合唱や独唱を入れて交響曲を作り始めました。


交響曲に人間の声を初めて入れたのはベートーヴェンの第九ですが、マーラーの交響曲は半数以上が「歌入り」です。


その最高潮はいわゆる「千人の交響曲」と呼ばれる第8番で、文字通り約1000人の演奏者と合唱者が必要という、とんでもなく大掛かり。演奏会を行うだけでも何年かに一度の大イベントになってしまうそうです。


でもこの4番はソプラノ一人でコンパクトです。





ショルティ&シカゴ交響楽団の演奏はLONDONの録音の素晴らしさと相まって、透明感があって、柔らかくて、みずみずしいのが特徴です。
同じショルティとコンセルトヘボウの録音(1961年)も持っていますが、コンセルトヘボウはハイティンクとの録音の方がより透明感があって素晴らしいです。


ハイティンクとアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の録音はマーラーにせよブルックナーにせよ、マーラーを正確に理解しているように思います。





現代的でけれん味がなく優しさに溢れている。それでいて深い後味が残る。小澤征爾のブラームスやバッハにも似たものがあります。





初めてマーラーを聴かれる方にはハイティンク&コンセルトヘボウをおすすめします。マーラーを世界に広めた功績が大きいと言われるバーンスタインは感情や癖が強くて、初めての人にはあまりおすすめできないかもしれません。




マーラーSym No.4/ハイティンク&コンセルトヘボウ(1967)








Youtube

ハイティンク&コンセルトヘボウの2006年の録音だそうです。(第一楽章)
http://youtu.be/5GWqE8ySC4c


第4楽章。ソプラノ独唱が入り、歌曲化した楽章で、しかもいわゆる交響曲にありがちな大団円の終章がない、地味に掟破りの楽章。
http://youtu.be/3D8A2GWalhY

2012年11月22日木曜日

Collectors' Items/MilesDavis sextet(1953,1956)




A面1953年のセッションと、B面1956年のセッションという、ちょっと年の離れたセッションの寄せ集め。

A面の1953年のセッションは、マイルス・デイビス、ソニー・ロリンズ、そしてチャーリー・パーカー(チャーリー・チャンという変名でクレジットされている)のセッション

まあ、チャーリー・パーカー(sax)は言われているほどヘロヘロではないにしても(チャーリー・パーカーはアドリブの天才と言われていたが、麻薬中毒で1950年代にはアドリブもかなり鈍り、このセッションの2年後に34歳(!)で死去)、他のメンバーのソロも含めてちょっとアパシーなところがあります。

リフもソロもオールドスタイルで流している感じ。ただ、なんとなく味はあります。

B面1956年のセッションはベーシストがパーシー・ヒースに代わってポール・チェンバース。そしてソニー・ロリンズ(sax)、トミー・フラナガン(P)。

B-1曲目の「No Way」はマイルスがのっけからアドリブソロを突っ走らせています。

基本的にはハード・バップなのですが、ポール・チェンバース(b)ベース・ラインがとてもスリリングなおかげで3人のソロに緊張感がみなぎっています。




The Serpent's tooth(take1) (A-1)



No Line(B-1)

2012年11月21日水曜日

Bag's Groove/MilesDavis and The Modern Jazz Giants (1954)


ここ数日はマイルスとベートーヴェンのヘヴィローテーション。
どちらも普段あんまり聴かないんだけど、マイルスデイビスは「マイルス」と唱えると聴きたくなり、ベートーヴェンは「フルトヴェングラー」と唱えるとむしょうに聴きたくなるのです。(なんで)

マイルスがドラッグを克服し、Prestigeでレコーディングを始めてからのセッション。ハード・バップの名曲です。

だんだん緊張感が増してモードっぽくなりつつあますが、まだまだモードの時代じゃない。



セッションメンバーはセロニアス・モンク(p)、ソニーロリンズ(sax)、ミルトジャクソン(Vib)など。



みんなコードの呪縛から離れて、新しいメロディを奏でたくてジタバタしながらフレーズを模索しています。ビリビリします。



でもやっぱりパーシー・ヒース(b)のベースがルートをがっちり抑えて離さないので、誰も飛び出せない。


本当にコードから自由になるためには、ベースが遊ばないと話にならない。


これはパーシー・ヒースの問題ではなくて、ブルース進行でこういう曲だからなんだけど、やっぱり各々スケールの限界を感じている。





特にそれを感じるのがセロニアス・モンク。彼のコード破り(厳密に言うと和音を鳴らしているのでそれもまたコードなんだけど、ソロの際に取り決めとは違う音が出てくるので、他から浮いてノーコードに聴こえる)が、マイルスの後のモード・ジャズに少なからず影響を与えている事は確かなようです。





Bag'sGroove(Take1)
http://youtu.be/I0d5LU6SCz8

2012年11月19日月曜日

Kind of Blue/ MilesDavis sextet (1959)







晩秋の曇り空。コーヒーの香りとマイルスが部屋を満たしています



前期マイルスの名盤。Beethovenで言えば「英雄」、Beatlesで言えばHelp!、LedZeppで言えばIII。
極端に言えば、モダンジャズはこれ1枚でもいいかなぐらいです。
特にA面3曲目「Blue in Green」は何度聴いてもため息が出ます。

マイルス以前、マイルス以降というJAZZの流れを作ったアルバムとも言われています。
すべての曲が、スケッチ的なテーマのみ収録1時間前に提示され、ほぼぶっつけ本番、インプロヴィゼイション(即興)同様のワインテイクで演奏されています。とんでもない緊張感と音楽の化学変化…いわゆる「モード・ジャズ」の走りのアルバムです。

もちろんあの忌々しい「コード進行」などというものはどこにも存在しません。コードから解放されてこそ、音楽は無限大の可能性を発揮するのだという真実を、マイルスはこのアルバムで見事に証明してくれています。


ピアノはビル・エヴァンス、サックスはコルトレーン。


So What
誰でも一度は耳にしたことのある名曲
http://www.youtube.com/watch?v=DEC8nqT6Rrk&feature=colike

Blue in Green
一番好きな曲
http://www.youtube.com/watch?v=PoPL7BExSQU&feature=colike


2012年11月18日日曜日

バルトーク/弦楽合奏のためのディヴェルティメント/バイヤール室内管弦楽団(1977)


「ディヴェルティメント」というのは、だいたいが貴族の食事やパーティ、祝賀会のBGMとして使われた音楽なんです。モーツァルト嫌いの僕もディヴェルティメントだけは好んでかけます。ただし食事時。聴こえるか聴こえないかぐらいの音量で。

だけど、バルトークのこのディヴェルティメントと称する音楽だけは、食事時にはかけないだろうなあ。BGMとしてはキツイ。
真正面から聴いたほうがいいです。



Zagreb Soloistsによる演奏
http://youtu.be/vemkwcuNiT4

2012年11月17日土曜日

Bruckner Sym Nr.9/ サイモン・ラトル&BPO(2012)




よくもまあ、音楽にこれだけ集中耽溺できるのだと、自分に対して改めて感心、半ば呆れています。
かといって、論理的、系統的、分析的に聴いている訳ではないのです。それが時折コンプレックスでもあり。

同じ音楽を聴いた時「これは〇〇の情景だね」とか「これは提示だ、否定だ」とか、音楽好きの友人知人がすぐさま解釈指摘しているのを聞くと、僕は「え?え?」となってしまう。

ベートーベンの第九の第4楽章で、あの有名な歓喜の歌の主題が最初に出てくるところがあります。
それが、コントラバスによって「否定」されるところがあります。

これを「否定」とすぐさま感じ取るためには、楽曲の解説を勉強するか、ドイツ語の「Nein」を知らないといけない。
実際、コントラバスは「ナーイン!」と言ってるのですから。
すごいよベートーヴェン。。。
でも僕はこれを感じ取る感性には乏しい。

あの部分は僕にとっては長いこと余計な音でしかなかった。
そのうち「起きろ!目を覚まして歌を歌い出すのだ」という声聞こえるようになって。。。
「おーいっ!」です。


子供の頃、一番大好きな交響曲は、ベートーベンの6番「田園」でした。これは標題音楽で、非常にわかり易かった。音楽によって描写しようとしている情景がはっきりしているのです。
けれども大人になるに連れて、標題音楽はだんだんニガテになってきました。

標題と言えばRシュトラウスやムソルグスキーなどは、最初はイメージしやすいのでとっつきやすいのですが、飽きも早い。
それで次第に「作曲家の意図や背景」を具体的に感じるのが難しい、つまり、どうとでも取れる音楽の方が好きになっていきました。


まあ、どうとでも取れる音楽というのは実際はそうはないんだけど、純粋に音が人間の感情や思考、魂、精神性、身体に与える影響というものが、音楽にはある。
優れた音楽というのは、具体的な描写を意図で縛られた音楽よりも、作者自身の意図を超えたところに、音楽の神がかった力というものが存在し、作曲者は神の代弁をしている過ぎないと、僕は思うのです。


JAZZでも、ソウルやブルース、デキシー、ビーバップの影響が強いものより、どちらかというと無調気味で即興的で無機質な演奏の方が好きです。
かといってフリージャズが好きなわけでもないんだけど。

やっぱり音楽というものには「第一の意図」はどうしても必要で、その意図を離れてこそ音楽なのです。意図が全く存在しない音楽は音楽ではなく、単なる雑音である。

さてそういった意味でも、ラトルとBPOの今年録音のブルックナー9番は僕にとってとても意味のある特別なブル9です。

ブルックナーは、この9番を完成させる前に亡くなってしまいました。それで9番は第3楽章までしか存在しません。ところがこのラトル指揮の9番は第4楽章まであります。

それは、ブルックナー研究者による、散逸した草稿からの復元という試みによるものです。
時代を追うごとに、実は第4楽章は、かなりのところまで書き上げられつつあったということが分かっています。彼は死の日の朝までこの第4楽章の推敲を重ねていたそうです。ところがその日の午後に亡くなってしまう。

そして死の直後に、弔問に訪れた知人や市民達が、完成しつつあった第4楽章の草稿を記念品とばかりに勝手に持ち去ってしまう。。。
痛々しい話です。

その草稿が、最近少しずつ見つかってはいるようなのです。

第4楽章の復元と演奏に賛否はあります。

もちろん第3楽章のアダージョで完結なのだという方が主流です。
確かに最後のワグナーチューバのコーダは、彼が死を迎えた時の情景、永遠を表している様な解釈の方が自然かもしれません。

しかし僕にとっては、この第3楽章が終章とはとても思えず、ずっと何かすっきりしない違和感を感じていました。
少なくともブルックナーの他の交響曲を聴く限り、これはやはり未完成でしょうと。

シューベルトの「未完成」は、あれはあれでもうお腹いっぱいなんですが、ブルックナーの9番はかなり違う。

まだ足りないんです。

作者の意図も然ることながら、それを超えたところに、ブルックナーの芸術はある。
それは、交響曲第0番から綿々と続く。それにはれっきとした法則がある。

第3楽章で主題が日常から徐々に壮大な宇宙へとステージを変えていき、第4楽章の途中で突然雲が切り開かれるようにして目の前が明るく広がる。

この9番の言わんとしているものも同じだ。
第3楽章では、聴く者はまだ人間と神の間で煩悶しているような状態だ。それが次第に神に導かれて視野が広くなっていく。
そして、最終的な解決はあのコーダのフェルマータによって導かれ、第4楽章に引き継がれるはずだ。
第3楽章のあれはまだ大団円ではない。神の救いではない。和解でもない。
あれはまだ神の声の前触れでしかない。

「さあ、いよいよだ」

そう言ってる。
その感覚的解釈が、僕の中に存在するのです。
だから続きをどうしても聴きたい気持ちに駆られるのです。

これは決して学説的に正しい解釈の態度ではないのかもしれませんが、ブルックナーの芸術の素晴らしさは、音楽が非常に普遍的な音が並んでいながら、総合された音は個々の精神一つ一つに対応してしまうというところにある。
まさに「神」と見事な相似性を持っている。
そういう意味で、学説や作者の意図が、単なる「第一の意図」で済まされてしまうほどの壮大さがある。

これまでも、草稿を断片的につなぎ合わせて演奏している例はあるのですが、ラトルのこの復元版(SPCM2012年補筆完成版)は、余計な創作を極力排除し、なるべくブルックナーならこう完成させたであろうという「法則」を見つけ出して草稿を丁寧に結びつけて復元したものだと言われています。

この第4楽章が完璧なものであるとは誰も思ってはいないでしょう。これからもどんどん分析は正確さを増し、第4楽章は作曲者の第一の意図に近くなっていくでしょう。

今は完全ではないにしても、このバージョンをラトルがベルリン・フィルが、今の空気の中で(研究者としてではなく演奏芸術家として)解釈し演奏するということ自体が意味の深い事で、この試みは非常にうまく行っていると断言できます。

感想は…

まさに、あるべき最終章だと思います。
ラトルはこれまであまり好きな指揮者ではありませんでしたが
心から「ありがとう」と言いたいです。


2012年11月14日水曜日

Bartok/The Muraculous Mandarin / Boulez & NYP(1971)



過去一度だけ僕はこの「マンダリン」を抜粋で聴いたことがあります。本当に不気味で訳が分からないという印象しかなく、久しく忘れてました。
この音楽は本来パントマイムと合わせて上演されるのですが、作曲された当時も内容があまりに不健康過ぎて初演が1日で打ち切り、バルトークの生前は全く顧みられなかったそうです。

その内容とは…



3人の男に売春を強要されている少女。窓の外を通りかかる人たちを誘っている。少女は中国の宦官風の不気味な男を誘惑してしまう。不気味すぎるために少女は彼から逃げ惑う。隠れていた男達はこの宦官を殺しにかかる。が、殴ってもナイフでメッタ刺しにしても死なず、宦官は少女に挑みかかろうとする。あまりに死なないので宦官は部屋の天井から吊るされる。それでも死なず、少女のほうを見つめている。最終的に少女は意を決して宦官を下ろすように男たちに頼み、宦官は少女に抱きつく。少女もそれを受け入れる。その時、やっと宦官の息が絶える。

という、まあ現代でも十分にエグさ爆裂の内容です。
当時のヨーロッパの情勢を考えたり哲学的分析を加えることで十分に深い内容や一定の評価もなされているのですが、それにしても、この非常に近代ヨーロッパ的で神経症的で陰鬱とした内容の音楽が、というかバルトークの音楽全体的に言えることですが、なぜかフィジカルでバカが付くほど健康的なアメリカのオーケストラや、小澤、ブーレーズといった、一見明るく表層的と思われている指揮者がやった方が定評があるというのが、なんだか不思議な感じもします。


でもショスタコーヴィチみたいに救いようのない陰鬱さとは違い、それだけでない何かがあるような気もします。まだわかりません。


不気味ではあるけれど、不思議に収束感のある、要するにとっちらからない、聴き応えのある曲です。

もしもマンダリンのあらすじから遠ざかって何か違う解釈(というか妄想)ができれば、もっと面白くなるのかもしれません。

しかし返す返すも、今年のサイトウキネンフェスティバルでもバルトークの「青ひげ公の城」が上演されていたことは知っていたんですが、もう少しバルトークの魅力に気づくのが早ければ僕も行きたかった。。。残念です。

2012年11月13日火曜日

MontreuxII / Bill Evans trio(1970)



ブロムシュテットのブルックナーを聴きに行った時、隣になった老紳士(78歳)が、連れ立っていた妙齢の女性に言っていた言葉を小耳に挟んで僕は密かに膝を打ちました。

曰く「こういう生の演奏が採れたての鮮魚や野菜だとすれば、CDは缶詰なんですよ」


とすれば、MP3はカップラーメンで、アナログレコードは個人経営の食堂かレストランだネ!

アナログは当たり外れが大きくて、録音技師の腕次第みたいなところがあって。。。
まあ、カップラーメンもたまには食べたくなるし。。。

とまあ、立ち聞き(座っていたけど)はともかく、ところでビル・エバンスは、CDもアナログもあんまり聴いている音に差異がないなあといつも思うのです。

グレン・グールドもそうなので、「ピアノという楽器のせいかな?」と思ってはいます。

CDの音質が近年進化したとはいえ、アナログに比べてどうしても一般的に臨場感に劣る原因を、僕は常々、よく言われている周波数帯の限界にあるのではなく、16bitという括りでは非整数倍音を捉えきれてないせいではないかと考えています。

例えば同じ22MHz上限の音でも、16bitではなく、24bitで録音〜再生したものは、実感として明らかに音抜けがよく、臨場感がある。

ピアノという楽器は他の弦楽器や管楽器に比べて非整数倍音が高度に管理されていて、意表をついた倍音は出ないようになってるため、16bitでも十分に補完できる音が出てくる。

けれどもバイオリンなどの弦楽器や管楽器は非整数倍音は楽器の個体差によって異なるし、意図しない雑音としての倍音もたくさん出る。
それは16bitではどうしても捉えきれない。

それで、僕はオーケストラや管楽器のCDをかける時は、うっすらホールリバーブをかけるようにしています。

これは、生音とは別系統でリバーブマシンを通したリバーブオンリーの音を別のアンプ&スピーカーで出すのです。リバーブマシンは言ってみれば倍音発生装置なので、そうすると部屋の残響とこのリバーブがブレンドされて、かなりの倍音補完ができ、音の抜けが良くなるという寸法なのです。

邪道と言えば邪道なんですが、オーケストラなどは、元々ホールトーンが痩せてしまっているCDが多いので、まあ、この手もありかなと。
安いセットをやりくりして見つけた方法です。
缶詰だって工夫すれば立派な料理になると。

ビル・エバンスとは全く関係ない話でした。

このアルバムの聴き所はなんといっても最後のPeri's Scopeのセッションじゃないでしょうか。

Peri's Scope

Someday My Prince Will Come / MilesDavis sextet (1961)



十数年聴いてもさっぱり分からないJazzの中で(メンタルがないんだろうな)、でもビル・エバンスとマイルスだけは、気が付けば手元のJazzのレコード・CDの中で群を抜いて多くなってしまいました。

その中でもかなりのヘヴィロテでかけているアルバムがこれ。
walkin'などの緊張感溢れるセッションもいいけど、流して聴くのはこちらの方が抜けてて分かりやすく健康的。


それにしても、ビル・エバンスはそうでもないんだけど、マイルス・デイビスはやっぱりLPで聴くのが断然いいです。
昔、海の見える喫茶店で無口なオーナーがかけていたマイルスのミュートトランペットとベースの響きや息遣いはCDではとても望むべくもなく。。。SACDはどうなんだろ。

PFRANCING

2012年11月9日金曜日

Kibou no Kanashimi


バイオリンとギターのためのコンティヌオによる常動曲(2012/10/20)


2012年11月8日木曜日

バルトーク弦楽四重奏全集・東京クァルテット(1975〜1980)



バルトークの弦楽四重奏にぞっこんなのです。
やはり弦楽四重奏はなるべく全集で聴きたい。

そういう願いを持つ際に、良いニュースが一つ、悪いニュースがひとつ。


良いニュースは、バルトークの弦楽四重奏曲は6つだけ。だから予算的に安くて済む。これがベートーヴェンやハイドンになるとCDでも10〜数十枚になってしまう。
バルトークならCDでもアナログでも2〜3枚でいい。

でも、できればアナログで聴きたいなあ。

悪いニュースは、バルトークの弦楽四重奏なんて基本的にクラシック上級者やマニアしか聴かない。故に市場に中古のアナログレコードなんか出回るはずもない。

と思っていたし、実際中古レコード屋さんを廻っても、まず見当たらなかった。いやバルトークの弦楽四重奏曲そのものはあるんだけど、べらぼうに高いしバラバラで存在するだけだった。

ところが、友人に勧められて寄ったレコード屋で、よりによって東京クァルテットの全集が投げ売りされているのを発見!

自分的にはあり得ない値段。状態も素晴らしく良い。しかもドイツ版と日本版の両方がある!

もちろん即買い。
ただし僕はオーディオマニアではないので「音がより良い」とされるドイツ・グラモフォン(録音や初プレスがドイツなので当たり前)の方には目もくれず、丁寧な解説付きの日本語ライナーノーツが入った日本盤ボックス・セットの方を即買い。

バルトークの音楽についてここで何かを書くには、まだまだ知識も解釈も聴きこみも足りないので、説明はしません。

ただ、以下の2つのことは言えると思います。

ほぼ無調性の現代音楽なので、予備知識やチャンネルがないと全くもって聴けないほど、とっつきにくい。

バルトークは、ドイツ・オーストリアを中心とした音楽とは感性がちょっと違う。


僕もかつては無調性音楽なんて全く興味がなかったのですが、このバルトークは、スノッブでもなんでもなく、そこに浸ることができます。

これまで感じていながらどうすることもできなかった、具象と抽象、感情と分析的思考のはざまの、すっぽり抜けていたものを、バルトークが音楽的示唆によってひとつひとつ埋めてくれている気がするのです。

2012年11月6日火曜日

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 バンベルク交響楽団




2012年11月1日(木)
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 op.55 「英雄」
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 op.92

(アンコール ベートーヴェン:エグモント序曲 op.84

2012年11月6日(火)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453(ピョートル・アンデルシェフスキ)

(アンコール バッハ:フランス組曲第五番からサラバンド)
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(ノーヴァク版)








1日と6日とも堪能してきました。

特に6日は素晴らしかった。体調があまり良くない中で行ったのに、帰る頃にはすっかり良くなって陶酔の中にいました。全くオーバーでなく歴史に残る名演と言ってもいいのではないだろうかと思います。

詳細な感想や批評はここでは書きませんが、ブルックナー4番を演奏するというのはブロムシュテットにとって、そしてバンベルク交響楽団にとって、(いろんないきさつや由来があって)本当に特別で素晴らしい事なのだと実感しました。



もう一つ、ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ)のアンコールで演奏されたバッハ(たぶんフランス組曲第5番サラバンド)は、この世のものとは思えない美しさ。


演奏が終わっても、拍手がしばらく起きなかった。それだけ彼のピアノに吸い込まれ、感動の渦の中に聴衆全員が飲み込まれていました。


このアンコールの時も、そのあとのブラ4の時も、なかなか出会えない、会場中のすべての人の感動の共有感というものが、
この夜のサントリーホールにはありました。



正直に言って、6月のパーヴォ・ヤルヴィよりもずっと感動が深かった。
そして、何度も言いますが全然負けてないのが日本の飯守泰次郎です。






2012年9月11日火曜日

自分の二面性を受け入れれば自由だ

哲学研究者の間ではとっくに解決している問題なのかもしれないが(サルトルとカミユの論争は知っている)、一般人にとっては、今まさに旬として、カミユの不条理という概念に翻弄されている様に思う。

人間は本来の人間性の発露であるはずの自由を求めて自由になろうとすればするほど、不条理と名付けられたものに自由を奪われている。

けれども、不条理と名付けたものは、本当に自由の敵なんだろうか?

都会で成功した二人の若い男女が、田舎に里帰りした。二人の服装は都会では華やかで美しいが、田舎の田園では派手で裸みたいでおかしな格好だ。そのうち「あそこのガキが都会さ行っていきがって帰って来た」という様な噂が立つ。

笑いものになった若い二人は、田舎に錦を飾るどころか、田舎の閉鎖性や噂好きに辟易し「遅れている」「田舎者!」などと悪態をついて都会へ帰ってゆく。 これは病的な現象でもなんでもなく、全世界の全ての世代がどの時代においても必ず体験してきた普遍的「不条理」の一場面である。

実はこの手の不条理というのは、高邁な自由と引換にしているように見えて、実は単純に「処世術に対する不明」が招いている結果にすぎないという事に気づく人は少ない。

自由を分析的に突き詰めていくと、この点が見えなくなってきて、自己の無限大の自由と引換にするものを探し求めて帰納しようとし始める。

これは、無限大の経済力と引換にすべきものは何か?を探し求めるようなもので、実に無意味だ。人間には無限大の経済力も無限大の自由も必要ではないという観点が、西洋の分析的哲学には欠けている。

日本には仏教などの影響から「ほどほど」「中庸」という概念が浸透している。「足るを知る」というのもそうだ。この観点では、無限大の自由という事自体があり得ない。ただ、これも諸刃の剣で、自由の程度を状況や他者の視点から勝手に規定される危険性を帯びてはいる。

先の男女の若者には、田舎の親兄弟がいる。彼らとてその親兄弟に褒められたくて、あるいは親孝行したいと思って帰って来たに違いない。都会では華やかで自由で生き馬の目を抜くような生活をしていてもだ。それは人間の二面性である。

人間には必ず二面性がある。どんな人にでもある。そこを無視し一つの現象「自由」というものだけを分析肥大化させていくと、田舎に帰る時はほんの少し親孝行できる服と化粧で帰れば?という、単なる処世術の問題が「自由に対峙する不条理」というような遠大な話に変化してしまう。滑稽。

彼らは、都会の色に染まってはいても、優しさや故郷を捨てた訳ではない。生き方に少年時代には持ち得なかった自由と闘争を都会で身に着けて来た。それをお披露目したかっただけなのだ。

しかし、彼らも含めて現代人はみなこう言う。「田舎には自由がない」と。まるで深刻な不条理の問題に直面し、息の出来ない状態が起きているように感じる。しかし、現代の田舎で起きているのは、自由や因習や不条理の問題などではなく、人間の二面性の否定の問題である。

この二面性の否定は、僕はヨーロッパ人やアメリカ人が持ち込んだ価値観であると断言する。実に非哲学的で野蛮な思想である。元来日本人は人間の二面性を許容して生きていた。

どこまでも良き人、誠実な人、品行方正な人を目指して、陰の部分やうしろめたい部分をなくして生きると、その人間は必ず破綻する。「そんなことをする人には見えなかった」と証言されるような犯罪を犯すか、自ら死に向かう。

日本人や哲学的哲学的東洋人は、そのことを昔から知っていた。人間には善も悪もある。どちらかだけには成り得ない。だからどちらもほどほどに持っていればいいと。

自由とはどこまでも肥大化させる程の価値はない。むしろ人間の二面性を認めてしまえば、自分の居心地の良さのためにどれほど自分の自由を費やそうか考えられるようになる。

そして元来、日本人にはその二面性を許容できる社会的メンタリティが備わっている。ヨーロッパやアメリカに比べると、ちっとも窮屈なことなんかないのである。

まあ、要するに、心底いい人になる必要もなければ、他人の目を気にする必要もありませんよ。ってことです。


※Twitterに書いていた事をそのまま転載しているので、表現不足で分かりにくい部分があるかもしれません。気がついたら後で加筆修正します。

2012年8月16日木曜日

AlfaRomeoGiuliaBerlina



たまたまドライブ中に出会ったジウリア(AlfaRomeoGiuliaBerlina1960th)
オーナーに声をかけて撮らせてもらった時の写真。

オーナーは、元々1300ccのシングルキャブだったエンジンを、1600ccエンジンに換装、ウェーバーツインにしていました。

この時代のアルファのエンジンは、1950年代からオイルショックを経て1980年代終盤まで基本設計が30年間ほぼ変わらず使われた長寿命エンジン。
また1300ccから2000ccまでどの時代のクルマも換装可能。
キャブレター時代の4気筒エンジンとしては間違いなく最高傑作の一つと言えます。

僕がかつて乗っていたgtvにもこのエンジンが積まれていました。

アクセルを踏むと「ガヴォッ!」と言う独特の吸気音を発しながら、6000回転までトルクを失わずに一気に回ってくれる最高のエンジンでした。

こんな40年以上経過したクルマでも、ちゃんと整備して回しグセをつけてやれば、燃費は確実に10km/L、180km/h巡航だって可能なんです。

優れたブレーキとハンドリングとシャーシとエンジンの、驚くべき耐久性と先進性。

2012年8月10日金曜日

神サマとの復縁

人は本当に困ったとき、神仏に頼ります。
そして神仏に何かを祈る時、人は一心に祈ります。
必死に祈ります。

けれども人生がうまくいっている時はどうでしょう。
願いがあっさりと成就した時はどうでしょう。

神サマのおかげ?
いやいやそれどころか、自分のおかげと思うかもしれません。
人によっては神の存在すら忘れてしまうかもしれません。

そもそも神とは何でしょう。

あなたに何かをしてくれるだけの存在?

叶った時に、自分のおかげだと思うのはまだマシです。
逆にもしも祈りが通じなくて望みが成就しなかったりしたらどうでしょう。
神様に文句を言ったり呪ったりする人も少なくありません。
「神など存在しない!」と言う人さえいます。

そうして神様は人から離れていくのです。

でも、神様はあなたをすぐに見捨てる訳ではありません。
しばらくは、こっそりと、あなたをいつでも見守っています。
ただ、あなたが神様にいくら問いかけても
もう神はあなたに返答することは二度とないのです。
いくらメールを送っても、返信がこなくなってしまった恋人のように。

でも、いつしか祈りも通じにくくなって。。。

神と復縁して、祈りと言葉を交わせるようになってください。

そのために「神に感謝しろ」という人もいますが、大切なのは感謝ではありません。

もしも神に愛されたいのなら
あなたが「気にかけてあげる」ことです。
カミサマは一体今、何をしているんだろう。
カミサマは幸せだろうか。
カミサマのために何かしてあげられることはないだろうか。


神様とお話をしたいなら、あなた自身が神様に関心を持ち
労ってあげる必要があるのです。
自分が神のために何をしてあげられるか
いつも考えて意識をそこに集中している必要があるのです。

忙しいから神サマなんかにかまってる暇はないのなら
神サマもまた同じようにあなたにかまってる暇はなくなります。

うまくいってるから神サマが必要ないのなら
あなたが必要としている時にも神サマは不在でしょう。


自分がしてもらうことの大きさだけを、愛の大きさと勘違いしてはなりません。

あなたの愛と興味と、気にかけてあげる心の余裕こそが
神からあなたに注がれる愛の深さそのものなのです。


2012年5月26日土曜日

リーディングセッションには、明るい未来だけがある。


たまにはリーディングセッションのお話も。


私のセッションの特徴を少しだけ。


「リーディングでは、決してその人の未来の不幸を見てはいけない。」



というのが私のリーディングの鉄則です。 


なぜなら、未来は変えられるから。

そして、全ての人は
「生きて良かった」と思える未来を歩む権利と義務があります。


未来を見る人間には、それを伝える責任があります。


かつて私のリーディングの能力が特殊能力であることを気づかせてくれた恩人に

「あなたみたいに霊感霊視に頼らずにズバズバ当ててしまう人はあんまり見たことがない。」
と言われた事がありました。


そして同時にもう一つ言われたことがあります。

「悪いことを言わないのはいいことだ」

多くの占いや霊感霊視は、仮に悪い未来を見てしまっても、それをほぼそのままクライアントに伝えてしまう。そして後から「そうならないために」ということを言います。


しかし一度言葉にしたものは、ほぼ確実に固定化してしまうのです。
全ての予防策はほぼ無駄骨に終わります。
この大法則を知らないまま占い師や霊能者を自認する人のなんと多いことか。
本人にとっても周りにとっても危険この上ない事です。


悪いことまでそのまま伝えてしまうのはカウンセリングでもリーディングでもなんでもなく、迷信と運命論に支配された、原始シャマニズムに過ぎないと、その恩人も喝破していました。



ただ、そうは言っても私とて霊視的な何かに頼らないで全てを完結している訳ではありません。


やはり正確に見ようとするために、知識や先入観を取り払って、原始のシャマンのような状態になることもあります。
でもそうすると、やっぱりというかたいていというか、かなりしんどい未来をその人の中に見てしまい、セッションの途中で具合が悪くなることもあります。


こういうことをやってるから、占いや霊視の人はたいてい長生きできないんですね。
そんなものを占い師やセラピスト自身が見ることも、クライアントにダイレクトに伝えることは、誰の得にもならないのです。


私のリーディングの引き出しは幾重にも重なっていて、クライアントによってセッションのプロセスは全く異なることがあります。


例えばある人には、シャマンモード全開で、最初から見えるものを伝え切ります。シャマンモードで得られるのはほぼ100%映像だから、見た映像を話せば良いわけです。このアプローチで進めることができるクライアントは、私が見た映像だけで全てを理解してくれます。


逆にシャマンモードでは絶対にダメな場合があります。それは現在の状況が極端にしんどい方、肯定的な人生観や氣の泉がすっかり枯れてしまっている方、そういう人に対しては、私は最初からシャマンモードを閉じてセッションを始めることにしています。


見える映像シャットダウンするのは、かなりやりにくい作業です。けれど、それでもシャットダウンすることで、違うアプローチにスイッチします。


クライアントからの言葉が10に対して、私の言葉は1か2程度。そして起こりうる事、起こすための条件や前兆は、私の全て私の瞑想の時に現れる「声」を通して伝えます。
それは最初、まるで絡まった釣り糸を解きほぐすような作業です。


目の前にいる、あるいは電話の向こうにいる相手に氣の焦点を合わせ、声を聴き、話を聴き、絡まった釣り糸をほぐすように、原初となるその人のキーワードを探します。ここまでは表層意識がかなり活躍します。


そしてある瞬間、キーワードにたどり着く。そこから瞑想状態が始まり言葉が出てくるのを待つ。
言葉は私の口から発声はされるけれど、実際に私はあまりその内容について覚えている事は多くありません。時間にしてだいたい1020分程度、私はある種のトランス状態に入って言葉を並べていきます。


そこには悲劇的や絶望的な未来を表す言葉はありません。そういう言葉を、トランス時に放った感覚経験は全くありません。もちろん予感もです。


この現象は分析的に考えると、何か「こう生きて欲しい」とクライアント本人に伝えようとする、特定の意識がどこかに存在し、それを私の口を介して話しているようにも思うことがあります。


数年前、東北の沿岸地方のクライアントに「引越し」を薦めた事が続きました。あくまでも結果的にそうなっただけです。理由は分かりません。自分でも「ワンパターンだな」と、意識で考えるとそう思いました。


でも、セッションになると決まって「その地から離れることで氣の滞りがとれる」とか「あなたの望んでいる人との出会いは別のこれこれこんな地にある」とか、そういう言葉が続きました。


だから、私は地震や津波を予知した訳でもないし、そんなものしたくもありません。霊視してそんなものを見た日にはまともにセッションなどできなくなります。


ただ、そういう形で一人一人状況も事情も違う形で、命を守ったり未来を明るく変えようという声、ベクトルが働いている事だけは確かなのです。私はそれを「神の声」と呼んでいます。


「神の声」からは絶対的に愛の言葉しか聞こえてきません。そのクライアント自身の命を膨らませるような、許しと愛の言葉。。。もちろん罪とか罰とか因果応報みたいなこととは全く無縁です。


本当は、このような「神の声」は、心の耳を澄ませば、誰にでも聴くことができるものだということを私は知っています。ただそれを実現するためには、ちょっとした修行めいた事や、現代の社会生活に少しく支障をきたさなければならないライフスタイルも必要だったりするので、なかなかできる人がいないだけです。


もう一つ難しいのは、それぞれが「自分の事」を神の声から得られるものはとても少ないということ。なぜなら、客観視できないから。


この客観視というのはとても重要なことです。


「声」も「映像」も、自己や他者を客観視できないうちは、正確な像を結ぶことはありません。
これさえできれば、リーディングの8割は終わったようなものです。


トランス状態が進むと、言葉が勝手にその人の未来を語りだします。それは神や宇宙の原理に則った決まりに沿っているので、その人の魂にふさわしい命の繁栄と豊穣の未来がどうであるのか、そのためにはどう生きるのがいいのかを、指し示してくれます。


愛や生命の繁栄というものを実現できるベクトルそのものです。


結果として、悪い未来なんぞ一切見なくても、クライアントの未来を明るい方向に持っていくようなプロセスを示す事ができるようになるのです。それは生命繁栄という神や宇宙の原理に逆らわない、輝かしい未来から今を見つめるようなセッションです。


もちろんそれを実現するためには、クライアント自身の努力や、まっすぐに受け取ることができる素直さが必要ではあるのですが、それについてはまた別の機会に。



2012年4月27日金曜日

大フーガ ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番



ベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番変ロ長調op.130 大フーガ(op.133)付き
ラサール弦楽四重奏団・グラモフォン・1972年録音・LP

ベートーヴェンには、16曲の弦楽四重奏曲がある。その中で、特に傑作と呼ばれているものが何曲かあり、最後期の13番(作品130と133)は演奏者にとっても鑑賞者にとっても難易度も芸術性も特に高い曲として知られている。

その理由の一つに、最終楽章の存在がある。初演当時、あまりの長さ(15分ぐらいある)と難解さに不評が過ぎ、あの頑固一徹のベートーヴェンでさえ、周囲の指摘を受けて、最終楽章を平易な曲に書きなおし差し替えたほどだ。

それでその後、この最終楽章は13番から切り離され、「大フーガ」と呼ばれるようになった。
しかし現在、13番は最終楽章を「大フーガ」付きで演奏するものと、平易な第6楽章付きで演奏するものとが並立することになっている。

「フーガ」というのは、対位法(それぞれの声部が独立した曲や旋律を奏でている様に聴こえるが、全体で聴くと和音が成立して聴こえる曲の形式)で書かれた曲の一種で、簡単に言えば、最初にひとつのフレーズが独奏または単音で提示され、それを別の楽器(声部)が次々に度数を変えたり変奏しながら追いかけ演奏してゆく形式の曲だ。J.S.バッハにはこのフーガ形式の名曲がたくさんある。


バッハの超有名なオルガン曲のフーガ・ト短調が、とてもわかりやすい。最初に主旋律の提示があって、後から追いかけておんなじフレーズが被る。
それが前の主旋律と矛盾せずに「対位」しながら曲が進んでいく。



輪唱に似ているけれど、輪唱は全ての声部が常に同じフレーズを追いかけるのに対し、フーガは途中で旋律が変奏曲のように変化していったり、度数やリズムも変わったりする。似た様なものに「カノン」という形式がある。より輪唱に近いものを「カノン」、もっと自由で変奏曲に近いものを「フーガ」と言えば、大雑把だけれど覚えやすいかもしれない。

端的に言って、この大フーガは当時の(今もかもしれない)音楽オタクのための究極の曲だ。
ベートーヴェンは、パトロンである貴族や商人が主催する小さな室内楽の演奏会用に、四重奏曲をたくさん書いているのだけれど、そのパトロンであった貴族・商人たちは、音楽や芸術に造詣が深い人達が多く、いわゆる音楽マニアの人たちだ。

モーツァルトの時代までのパトロンは王侯貴族で、主に「食事用」とか「催事用」とか、そういう実用音楽を必要としていた人たちだ。だから耳触りがとてもいい音楽が多い。しかしベートーヴェンの時代になると、パトロンはより市民に近い人達となり、純粋に「芸術」を味わうために全く違う趣で音楽を聴き、芸術家達に援助した。
だからベートーヴェンも自分の芸術的挑戦や才能を遺憾なく発揮できた。
思う存分その前衛性を発揮し、その究極として生まれたのが、この13番の最終楽章として書かれた大フーガだ。



で、ベートーベンのこの大フーガは、最初の提示部もなんだかとっつきにくい上に、展開してゆくと、もう本当に何が起きているのか、分からなくなる。初めて聴いた時(スメタナ四重奏楽団の録音)には、正直最後まで聴くことができなかった。

まず主題の旋律が旋律としてつかめない。そして一度この主題を見失うとどこまで行っても主題の追いかけっこが見えない。見えないどころか、音自体が混沌としてくる。

「これのどこがフーガなんだ?」と思ってしまうのもそうだが、それ以前に、音楽として難解で、現代音楽を聴いているような気分になってくる。

ベートーヴェンの交響曲やピアノ曲は、どれも晩年の作品に至るまで、難解な部分はところどころあっても、全く旋律が読めない訳ではなく、聴いていくうちに共感できていく。

しかし、この大フーガに関しては、共感というものの概念がそれまでの楽曲とは少し違う気がする。20世紀の現代音楽の方が、もっと恣意的でわかりやすいぐらいだ。
それは、この曲が、ソナタ形式とかフーガ形式とか言う、いわゆる古典的音楽の「形式」「様式」に厳密に則って書かれた音楽だからだ。古典的な形式、様式を頑なに守りながら、全く新しい表現方法にチャレンジしている。
これが現代音楽なら、調性も形式も全て吹っ飛ばして書かれているのだから、自由に聴けばいい。
どっちがラクかと言えば、現代音楽の方が作る方も演奏する方も聴く方もラクだ。

決まりきった枠の中で、前代未聞の事をやってのける事ほど難しい事はない。

それでも第一楽章から第四楽章辺りまでは特別難解な曲ではない。室内楽が好きな人なら、ベートーヴェンの芸術の進化を目の当たりでてきる、美味しい展開に聴こえると思う。

しかし第五楽章ぐらいからベートーヴェンの芸術の境地が、聴衆を置き去りにしてひとり歩きを始める。フレーズ自体は優雅で親しみやすいのだけれど、いつまでも終わらないのだ。「ここがコーダ(終結部)かな?」と思うところで終わってくれない。延々と最後まで展開フレーズのくり返しの連続だ。
実はこの終わらなさ加減(無窮動)というのが、次の楽章の主題につながる。

第五楽章でゆるやかに続いた無窮動は、第六楽章、つまり大フーガで大爆発を起こす。前楽章でアダージョで延々と続いていた終わりなき展開が、今度は大フーガではアレグロで延々と続く。もう、それこそ延々と。しかもそのパワーは終盤に近づくに連れてどんどん強く大きくなっていく。
これが大フーガの取っつきにくさの一端のようにも思う。そのエネルギーはいや増しに増す。この無限ループのエネルギーが、まずは前代未聞の要素の一つ。

しかし大フーガの凄さ素晴らしさを形容するのに、それだけでは決定的に不足している。そういう前楽章からの流れがなくても、大フーガは大フーガとして、単体の曲として成立する完成度、凄さを持っている。

その秘密は、大フーガの主題(提示部)のフレーズにある。この主題、おそらく我々が「音楽」として耳にする音の中では、最も聴き心地が悪い旋律だ。音で言うと


ソ-ソ#-ファ(↑)-ミ(↑)-ソ#-ラ-ファ#(↑)-ソ(↑)

<※(↑)は1オクターブ上>



という、全て半音と6度飛びという、およそ不協和音以外の組み合わせしか考えられない音になっている。オクターブを取ると、全て半音同士だ。

例えば拳で鍵盤をランダムに「ダーン」と叩きつけ、出た音を組み合わせ直し、なるべくフレーズとして成立しないように並べると、こんな提示部になる様な気がする。

これは、ベートーベンは意図的、意識的にこうしたのだと思う。ほぼ確信を持ってそう思える。(既に常識ならごめんなさい。評伝や批評文等をあまり読んでないので)

かつてバッハがでフリードリヒ大王から難題の主題(この主題旋律も気味の悪い半音下がりが続くなかなかヒドイものだ)を示され、これで6声の曲(対位法で)を即興で作ってみよなどという無理難題を突きつけられ、しかし最終的には「音楽の捧げもの」という名曲に昇華した出来事の、まるでオマージュのようだ。


普通の才能で、この主題を持ってこられても、まず音楽にはならないだろう。ましてフーガや対位法に至っては、決して和音など生まれるはずもない難解な主題に見える。現代音楽やジャズですら、決してありふれているとは言えない旋律だ。そんなフレーズを今から200年近くも前の、様式でガチガチだった時代に提示し、いかに音楽にしてゆくか、チャレンジ、挑戦、前衛以外のどんな形容が当てはまるだろうか。

実際のところ、当時の人たちには理解されずに終わった。
それは、この曲の持つ主題の難解さ、激しく情緒性のない無窮動だけが耳に届いたからなのだろう。

しかし、本当はこの曲にはもっと深い秘密が隠されている。
これまでの大フーガの特徴をまとめると

  1. 難解でそれ自体では音楽と成り得ない主題フレーズ
  2. まるでミニマル・ミュージックのような激しい無窮動
  3. それによる情緒性の欠如

これが、大フーガの特徴でもあり、我々を遠ざけている主な原因だ。

しかしこの3つの点だけに拘っている限り、この曲の最も重要な点に気づかないで終わってしまう。
その大切な点とは何か。

それは


  1. 4つの楽器全てによる、フレーズのアルペジオの分担が起きていること(三連のち四連)
  2. その連続が、そのまま主題の旋律を作り出していること


繰り返すと
まず最初に主題があり(しかもそれ自体は旋律としては自立し得ないほどランダムにそれを使ってそれぞれの楽器が一音ずつ三連アルペジオの構成音に分解してフーガを奏でる。シンコペーションのあとで、今度は四連のアルペジオになる。それは全て破綻のない旋律と和音で構成される。そしてさらにそれを俯瞰すると、再び大きな「主題の旋律」が見えてくる。

これほど難解な主題でありながら、緻密な和音構成が一瞬たりとも崩れる事がない。(演奏者のタイミングや技量によってそれがちゃんと再現されている時とされない時があるが)

分析的、数学的、幾何学的、文学的、哲学的、ユーモレスク、大迫力、そして音楽的。

というか、この事に気づいた瞬間、もう私はベートーヴェンにひれ伏すしかないと思った。
さいころを振ったような主題から、交響曲にも全く引けをとらない壮大さと、数学的緻密さ、深い精神性、ドラマチックさを兼ね備えた音楽が生まれる。
ベ−トーヴェン自身の他の16曲の四重奏曲はもちろん、ハイドンやモーツァルトにだってなかった、前代未聞の音楽芸術だ。


作曲も度を越して難しければ、演奏者の解釈や技量も難しい。そして聴き手にとっても難解だ。
しかしこの曲には、作曲者、演奏者、聴き手の三者が、それぞれお互いに共感をわかちあう、ある境地が、確かにある。
主題の難解さと、それをフーガにする難しさ、そしてその意味に思いを馳せ理解を試みようとする時、初めてこの大フーガの全曲の全容が見える。

左脳でまず分かり、理解できた瞬間に、右脳で全てが共感に変わる。これがベートーヴェンが最終的に目指した芸術(哲学的音楽)なのかもしれない。

このセオリーはあの交響曲第九番でも存分に発揮されている。第九は、「歓喜の歌」が含まれる合唱部分がポピュラーになっているが、実際、第九の歓喜の歌は、それまでの第一楽章〜第三楽章と、独唱が始まるまでの第四楽章の器楽演奏の果ての結果であって、それだけで成立するものではない。

ただ、私達はあまりにあの喜びの歌を、日常的に耳にしているので、誰でも分かっているように感じている。しかしそもそも歓喜の歌だけで第九が成立するなら、第一楽章から第三楽章までは、必要ないのだ。実際、第九を原語で歌える人にも、第三楽章までをきちんと聴き込んでいる人はそう多くはない。全楽章を聴き込めるかどうかで、第九に対する理解はだいぶ変わってくる。


などと書いてはいるが、私自身も、この大フーガを抵抗なく聴けるようになったのはここ数年の話(いや、半年か1年かな)。プロの音楽家ならみな知っている事なのかもしれないが、鑑賞者としてはこれに気づくのに相当の時間を要した。


まあ、自分なりに聴きこみ方を発見した喜びは小さくなく、いつか大フーガのことについて紹介してみたいと思って、思いと考えがまとまりやっと書くことができた。いや、まとまってないかも。また聴きこんでいくうちに違う理解の仕方になって、考えは変わるかもしれない。

ちなみにこの13番はベートーヴェンが亡くなる2年前、54歳の時の作品、第九番よりも後だ。

この13番(と大フーガ)は、実は15番の後に作曲されたが、出版の順序が逆になったせいで、15番より若い13番という番号をつけられている。また、16番はこの13番とほぼ同時期に書かれており、13番よりずっと肩の力が抜けていて、軽い作品になっている。実際には13番の最終楽章「大フーガ」こそが、ベートーヴェンの室内楽における芸術の結実と言える。



Youtube 

Beethoven - Große Fuge(大フーガ) B-Dur Op. 133 - Alban Berg Quartett