2011年5月27日金曜日

本当に予言できる人

予言できる人というのはたくさんいます。
もともと人間にはそういう力が備わっているのです。
女性に多いかもしれません。
物事を先入観や生半可な知識による直感の妨害を受けずに済む人が多いから。
「守る」という能力が高いから。

ということは、男性であっても、先入観や生半可な知識で頭の中をかき乱されなければ、予言できるかもしれませんね。

ただ、ちょっとまって。
予言には注意が必要です。
その多くが「恐れ」「恐怖」に基づいている場合が多いからです。

そういった巷で言われる、災害についての予言の多くは
そういった恐怖の直感による防衛反応である事がほとんどです。

大災害が起きる、地震が起きる、地球が滅亡する。

この感覚は、実はややオーバー目に潜在意識に訪れる、ある種の増幅感覚です。
外れて元々。
用心のために人間が元々持って生まれた防衛本能なのです。
本当は誰でもできるのです。

災害を予言できる人が偉い訳ではありません。
むしろ恐怖直感が潜在意識にとどまっていられずに意識上に芽生えて誰かに言わずにいられなくなるというのは、資質として大問題です。
そんなものは予言でもなんでもありません。

もう一度言います。
予言できると言って、何かを言う人のほとんどは、直感本能による恐怖直感の増幅を感じ取って、それを自分だけに備わった能力と勘違いしてしているだけです。


本当に予言できる人というのは、災害や地震の予見には疎い人が多いのです。実は。
というよりも、本当に予言できる人は、災害予言はおおっぴらにはしません。
「予言です!」とか「こんな予感がします!」などと言わないし思わない。

なぜなら、そんなものは自然に芽生えて来る感覚だから。

自然に災害から「自分が遠ざかるように」行動してしまう。

これが本当に守られている姿です。

「地震が来ます!」「みなさん逃げて!」などとやる人は、自分の恐怖直感を意識上に上らせてしまう。
無意識から意識上に上らせるということは、他人をもその恐怖直感に巻き込んでしまう。
そうすると、他人の感覚も狂わせてしまい、正常な直感判断をできなくしてしまう原因になります。

だからいたずらに災害予言をする人というのは、私から見ると、実に修行の足りない、業の深い人だなあと思います。



災害とは、今話題になっている言葉で言えば、「てんでんこ」のものです。
災害から守られるということは、人それぞれの直感や生きる役目に応じた、無意識による守護です。

善悪や行いや予言ではありません。

住む場所、その日の行動、思い、事情、タイミング、直感、情報との長年の縁。
それらは全てその人の自主的な人生の役割と必然から生まれている。

その全ての組み合わせによって、その人の運命が、その日を分つ。
悲しくて辛いけれど、それは予言によっては決して救われるものではないのです。

自分が恐怖を感じ、心配するのは自由。しかしそれで守られ、逃げられるのはあなたとあなたの大切な人だけです。

自分の恐怖直感を意識上に上らせ他人を不安に陥れる事で、運命的に関係のない他人の判断に理性の邪魔や恐怖直感のいたずらな増幅を起こすことは、その人を死に至らしめる危険性を増すことはあっても、決して助けにはなりません。

だから、力のない者が予言をしては決してなりません。

本当に予言ができる人の言葉は重く、少ない。
今この瞬間もです。

神は全て見ています。

2011年5月19日木曜日

2011年5月10日火曜日

サバンナのサルネリ/SARUNERI





サバンナのサルネリ/SARUNERI
F8/2010~2011/oil painted on canvas
SOLD

2011年5月6日金曜日

来るべきアート(2)

「芸術の役割とは何か」
時代を経ても変わらない、芸術の存在意義、役割の一つに、美の創造があります。美とは人間の命の根幹の一部を担うものです。意外に思われるかもしれませんが、住む場所やご飯がなければ生きられないのと同様、実は美もまた、私たちが生きるためににはどうしても欠かす事のできない要素なのです。多くの人がそこに気づかずに過ごしていることは確かです。特にこの国ではそのように思われがちですが、それはこの国に元々深淵で豊かな美が当たり前のように横たわっているからです。元からふんだんにあるのに、わざわざ自ら作り出したり大切に思う事はありません。しかし、自然の美のみに頼っていては人間らしい生き方はできません。人工物にこそ、本来は美が必要なのです。美は、目や耳を通じて私たちに訴えかけ、私たちの心に大切なものを植えてゆきます。この国では残念ながらまだ人工物についての美の研究や理解が足りないと感じています。
美が私たちの目の前から持ち去られたとすれば、私たちは一ヶ月と生きることはできません。何に美を感じるかという個人差の問題はさて置くとしても、人にとって、美とは生きるエネルギーの根幹を為すものなのです。それを私たちは自ら作り出し、美しくない物は美しく変えてゆく努力を惜しんではならないのです。それを担うものが、古来からの美術、芸術です。そして、そこから派生し、発展し続けているのが現代の芸術です。




「芸術の進化とは何か?」
現代芸術が、芸術としての独自のアイデンテティやポジションを変容、定着させ始めたのはそう昔の事ではありません。変容を遂げて新たな存在意義を見いだして大きく発展した明確なターニングポイントは、産業革命の時代でしょう。それは、大量生産や功利主義へのアンチテーゼ、抵抗運動としての側面も持っていました。また非常に大きくゆっくりとしたうねりを持つ、人間回帰運動の一種とも言えるでしょう。とにかく全ての芸術運動に共通していたのは、人間の存在意義とそのスーパーパワーの挑戦です。例えば一人がどこまで時代を超越した感動、希少性を創造し得るか。美が人に与える価値観の変容。20世紀はそれがピークを迎えました。そして一方では、複製という形での産業化、大量生産、大量消費という現象も起きています。
この矛盾する2つの現象を、どちらも芸術と呼んでいるのが、現在の私たちの姿です。すなわち芸術が機械文明を取り込んだか、機械文明が芸術を取り込んだのか、古い「人間回帰」というテーマが、機械や先端技術と対峙するものであるというような従来の考え方では芸術を捉えられなくなって来ている。20世紀の一時期「芸術なんてどうでもいい、芸術と大上段構えてしまえば芸術でなくなる」というような突き抜けた様な、あるいは無力感のような話も聞かれた事がありました。それは結局のところ、効率的機械文明の極みの中で、人間回帰というものが機械文明と対峙しなくてもよくなってきた、そして対峙してきたはずの芸術も目標を失い、戦闘を放棄する宣言であったとも言えるでしょう。その結果、芸術はエンターテインメントと同一視化され、より手軽で分かりやすいものがアートと言われるようになってきた。
しかし、元来アートは大衆や大多数が好むものを提供するために存在して来た訳ではないのです。時にそれは少数にしか理解されず、あるいは長くは無視されながら、ゆくゆく世界の潮流、人の生き方を決定するための先頭に立つ役割をしてきています。
そういう意味において、芸術はエンターテインメントとはやはり一線を画し、啓蒙、解釈、熟考、鑑賞、永続性というものに耐え得る先進性をもって存在しなければならないことは明白です。しかしながら分かりやすいもの、流行でもてはやされるものの中に、その鑑賞に耐え得るものがあるのだという論が、現代のエンターテインメントアートの言い分でもあるのです。
そういう意味において、旧来芸術と呼ばれて来た芸術家の古い解釈や感性は、危機に瀕していると言っても過言ではありません。21世紀に入ってからはさらに一層、鑑賞者も創作者も、一人一人が真剣に芸術のレゾンデートル(存在理由)を探す必要性に迫られているように思います。



「来るべき「芸術」とは何なのか。」
もう一度「美」に立ち返って考えてみましょう。美は人間に欠かせないものであり、かつ生き方のヒントやパワーとなるものです。そこが芯です。
さて、私にも「自称アーティスト」という肩書きがあります。アーティスト(芸術家)というのは、たいてい自称なんです。もっとも、アーティストなんていうのは、職業の呼称ではありません。「オレはアーティスト(芸術家)だ!」と叫べば、今日からアナタも芸術家です(笑)
でも、そこには大きな大きな代償があります。経験則、先人達の生き様を通して明確なことは芸術家には、平穏な日々はないという事です。
もう一つの話、絵だけ描けて、上手いねと言われるのは、これはアートでもアーティストでもありません。プロではあるかもしれませんが。それでほくほくしている向きもありますが、絵が上手いだけや、音楽が上手いだけでは、プロフェッショナルにはなれても、アーティストにはなれないというのが、歴史上の巨匠達が口を揃えて言い放った芸術家の変わらぬテーゼです。
「アートは作品ではない、人間そのものだ。人間の生き方の創造である。」
と。このテーゼは21世紀も変わる事なく生き続ける事でしょう。なぜなら生き方を取りざたされずに作品だけが一人歩きした芸術家など、芸術家が芸術家と呼ばれて以来一人もいないからです。そう、アーティストとは、職業の呼称ではありません。尊称でもありません。生き方の創造宣言なのです。

単なる宣言。
しかして、大いなる決意。

そこから導きだされるものは、生き方が凡庸であったり、何かに追従するものではあってはならないという事です。新しいもの、進化したもの。だから、前提として、平穏な人生はあり得ない訳です。誰も歩いた事のない道だからです。常に試行錯誤や失敗、恥辱や抵抗、逆風、そういうものと隣り合わせでいる。平穏な日々から生まれる「生き方の創造」というものはあり得ない。そういうものなら、みんなやってるからです。
絵を描く事がアートではない。音楽を奏でる事がアートではない。もっとも、それで作品を何も生み出す必要がないということではありません。やはり作品は必要なのです。作品から生き方、生き様を逆引きできるようでなければならない。
過去、誰もが認める芸術家達が目指したものは、「人間は全能でなければならない」というテーマでした。全能になれないとしても、少なくとも全能を目指してもがいて泥だらけになっている人間そのものでなければならないと、彼らは異口同音に主張しています。
生きるという行為を、孤独と共に決意し、全能に向けて一心不乱にもがき苦しむのだ、嵐の中を突き進むのだと覚悟することが、アートであるとも言えます。そして20世紀、アートは哲学までに昇華を遂げました。機械文明に対する人間回帰は、表層の生き方の規範という部分では大成功を収めたのです。そしてそれは機械を取り込んだ。それはリテラシーの高い者にとっては、強い味方となりました。強さを持って雄々しく生きるための協力者となったのです。

しかして、それらの芸術が成し遂げていないものがあります。それは、残された人々のための生き方です。すなわち先人達のアートに関する偉大なる成果の上に立って言えば…


来るべき芸術とは、全ての人が絶望から這い上がり希望に溢れて生きるための、魂の高次進化(アセンション)を目指す創造運動とその成果物であり宣言である。」

ということができます。


私は「絶望」という言葉を入れました。自分でもどうしてそう入れたのか分かりません。しかし私たちは絶望から這い上がる必要性があるように思えてならないのです。その絶望は、早いか遅いかの違いこそあれ、全ての人にやってくるものです。しかしその絶望は絶望のままではない。神からの未来の保証がある絶望である。だから正確には絶望とは言わないのかもしれません。必ず希望へと変わる何か。凹み。その絶望を既に味わった人は幸いです。既に希望へとシフトできる準備が整ったからです。
もう一つは魂の高次進化です。今流行のアセンションというやつです。このアセンションの意味、解釈は様々に取りざたされていますが、私はやはりそれは魂の進化だと考えています。人間は進化する動物であると考えています。その進化は、もはや魂以外には残されていない。人間の進化は最終段階に来ているのです。それが、美と共にやってくるのです。本当の美とは何か。全ての常識が変わります。



長々と書いてしまいました。これは無論、まだ思考の途上です。直感的思考の。何かの叩き台になるかもしれませんし、考えが変わるかもしれません。言葉足らずのところは、順次推敲して直してゆくつもりです。




来るべきアート(1)

「なぜ絵を描くのか?」
私の場合は、描かずにはいられないからです。衝動でもあり、自分の本能の中でもっとも強いものの一つであり、直感、無我、霊感を表現する、もっとも自由な表現方法だと思っています。そして何よりも一生を通じて自分が自ら進んで行う行為の重要な根幹です。小さな頃から、ふと気がつけば紙に鉛筆で夢中で絵を描いていました。それは親に半ば強制的に始めさせられた音楽よりもずっとその動機が強いものでした。




「絵は最初からうまかったのか?」
最初から下手で、今も下手です。掛け値なしに。子供の頃、絵を褒められた事はなく、いつも周囲の子がアニメのヒーローやメカを上手に描けるのが羨ましかったのを覚えています。どうして自分はあのように描けないのだろうと。自分にはセンスがないのだと悔しかったです。




「ではどうして絵を描くようになったか?」
小学校に入ったばかりの時、風邪か何かで1週間ほど学校を休んだことがありました。休み中に他の子はデザインの授業でデザインなるものを描いていたようで、休み明け、先生が私だけ居残りさせて、「デザイン」を描いてごらんと、色画用紙とクレヨンを渡しました。私は訳もわからずに、大好きだったジドウシャをたくさん並べて描いた。それが校内の何かで金賞をもらったのです。それまで誰にも褒められた事がなかったので、それは嬉しい出来事でした。訳も分からずというのがポイントでした。その時に、自分はもっと絵を描きたい、上手くなりたいと思い始めたのです。自発的に画塾に行きたいと親に頼んで行かせてもらいました。ところが、やはり一向に絵は上手くならない。誰も褒めてくれない。そんなある日、もう絵がイヤになりかかっていた頃、何も考えずに適当に描いた鉛筆の下書き、それは急須と何か静物だったと思います、それを画塾の先生が感激して褒めて下さったのです。そしてそのデッサンを譲ってくれとまで言われたのです。もちろん譲れば再度描き直しになります。気を良くした私は2枚目も得意気に先生に見せました。ところが先生はそれには目もくれなかったのです。とてもがっかりしました。持ち上げられて、落とされる。
その瞬間、上手く描こうとする絵というのは、実は上手いのではないと気づいてしまった。自分は上手い絵を描いてもだめなんだ。他の子が線を上手に引けたり、整った何かを記号の様に描くという行為と、自分のいつも大雑把で整わないデッサンとは、本質的に何かが違う、他の子のそれも自分のそれもあっていいが、行く道はそれぞれどうも違うようだと子供の時分でそれに気づけたというのは幸運だったと言えます。「気づいた」と自発的に言っていますが、実際のところは画塾の先生の率直な感想と、薫陶と、空から降って心に湧いて来るものに導かれていました。それからは「上手く描こう」とするのをやめる努力をするようになり、印象派の様な絵ばかり描くようになっていました。その分、輪郭とかデッサンというものは2の次3の次のままでした。実際、上手く描こうとすると絵は死んでしまいます。絵は、本能なんです。直感なんです。本能と直感でないと描けない。




「デッサン力は重要ではないか?」
鑑賞者側に立って言えば、そんなものは必要ないと思います。一生のうちに数点だけの制作しか残さないというのであれば、それもそう。しかし欲張りにたくさん制作して、その芸術性をより高めて行くには、やはりデッサンを学ぶ事は重要だと思います。私自身もずっとコンプレックスに思い、克服しようとそれなりに努力してきました。
もちろんデッサン力がなくても素晴らしい絵は描ける。けれども、やはり偶発的面白さだけで終わってしまう。絵、芸術の面白さの多くはその偶発的面白さなんだけれど、偶発的面白さで描ける絵というのは、子供なら何枚でも描けるけれど、大人には邪心がいっぱいあるのでそうそうは描けない。子供の絵には邪心がないので、物凄い訴求力と面白さがある。ところが大人が描いた絵は邪心があって、訴求力にも邪心が見える。邪心というのは、こういう意図を伝えてやろうとか、驚かせてやろうとか、上手く描こう上手く描こうという心。そういう邪心は大人だからしょうがない。でもそれを消してしまわないと、本当には自分も世界も感動できない。芸術は感動できないと面白くない。
大人になって、そんな邪心なしに描ける絵は、1年にせいぜい1枚か2枚だと思う。30年描き続けたとすれば、30枚、それでも十分に素晴らしい芸術家だと思います。でもそこまで描き続けたらもっと欲張りに描きたいと必ず思うようになります。高まって行きたいと思う。そう思えば、意図、思考、技能を全て分かりつつ否定してかつ到達できる世界というのがあって、それはやはりデッサンをある程度はかじっていかないと見えてこない。
すなわち邪心を消すには、逆説的にデッサンの素養がどうしても必要なんです。一度デッサンを身につける。そしてそれを壊す。その作業があるのとないのとでは、どんなにデッサンや写実性、技巧性と無縁の作品であっても、やはりその訴求力、芸術性は全然違う。これは一見矛盾するように思えますが、不思議な真実です。例えばピカソにしても、デッサン力は神がかっていましたが、結局それを全て捨て去って初めて彼の芸術が生まれました。彼にデッサン力がなかったら、おそらく彼のあのような芸術は生まれなかったと思います。試しに、ピカソの様な絵を描いてご覧なさい。「あんなもの自分にでも描ける」と豪語した人のほとんどは、あれほどの構成を逆立ちしても作れないのです。彼のあの一見意味の分からない造形には、彼のデッサン力の賜物がたくさん隠されています。
しかしデッサン力があれば全てが事足りるということではありません。デッサンなんかよりもずっと重要なことが他にもたくさんあります。デッサンを難なくこなしてしまう人の中には、デッサンを過大に重要視する傾向が見えることがありますが、あまりそこに終始すると、やっぱりつまらないものしか描けなくなる。デッサン力は身に着けて後壊す、その勇気が何よりも大切だと考えています。




「デッサン力はどうやって身につけるのか?」
デッサンというのは、デッサン力の高い絵を見たり、同じ様に描く事でしか到達できないことは確かですが、実は理屈がちゃんとあって、その理屈を最初に学ぶ事です。そのもっとも重要なものは遠近法です。
私がデッサンというものを本当の意味で勉強し始めたのは大学受験から大学生にかけてです。美術を学ぶ学生ならみんなが通る、石膏像の木炭デッサンです。でも、それで実はデッサン力はまるっきりつかなかった。やはり周囲の「形の輪郭をとるのが上手い」同級生達に太刀打ちできるようなものは何も身に付かなかったのです。それは理屈を教えてもらえなかったからです。遠くのものが小さく見えると言う事ぐらいは分かる。しかし遠近法の理屈はそれだけではない。理屈が分かったら今度はとにかく描いてそれを確認する必要がある。
私の専攻は工業デザインでしたから、デッサン力のなかなか身に付かない私にとって、レンダリングという究極のデッサン力を要求される絵を描かなければならない日々は、致命的な屈辱を味わう日々でした。その上レンダリングで多用されるパステルという画材が、実に相性の悪いものでした。それでその頃、初歩的な線が描けて陰線処理計算ができるCADが普及し始めた初期のパソコンに触れ、実はレンダリングというのは、コンピュータでもできるのではないか?と思い始めました。落ちこぼれは常に新しく楽ができる事を考えるものです。そうして1990年前後に出始めの3DCG(コンピュータグラフィック)ソフトウェアをMacと共に導入し、手描きレンダリングを一切せずにデザインの仕事を始めました。工業デザイン分野でフルCGをレンダリングの道具にしたのは、日本でもかなり最初の方だったと思います。
ところが皮肉なことに、そうやって3DCGでレンダリングを描くようになってから、メキメキと自分のデッサン力が上がって来るのが分かりました。3DCGによるモデリング、レンダリングの設定は、完璧な遠近法の鑑賞と構成の機会を私に与えてくれ、加えて立体認識や輪郭の把握力というものも授けてくれました。今まで自分が描けなかったものが、Macで描けるようになった時、同時に手描きでも同じ様に描けるようになっていたのです(ある程度ね)。これは本当に喜びでした。そして面白いことに、それからは逆に3DCGから離れていったのです。




「色彩とは何か」
人の顔を肌色に塗るという事でないことだけは確かです。色彩は常識や先入観の破壊です。そして破壊ができて初めて、真実の色が見えて来るのです。だからといって単純に、じゃあ顔を青く塗ってやれというのではありません。そこには驚かせてやれとか、上手くやろうとか、奇をてらうとか、そういう意図があってはならない、あくまでも真実の色というものが必要なのです。無になり真実を見る目。それが色彩だと考えています。
もう一つ重要なこととして、色彩は人の氣、場所の氣に大きな影響を与えるという点です。色の持つパワーを良く分かることは、私の制作にとってはとても重要なことです。




「どんな芸術(アート)を目指しているのか?」
誰よりも何よりも、自分が感動したり面白いと思うもの。でもそれは「面白いものを描いてやろう」とか「感動できるものを描いてやろう」としても描けない。何か指針を置いて、その中で自分の本能、直感を自由に泳がせる必要がある。
芸術というのは人間の自然の本能で、理屈で「これが芸術だ!」とやることはナンセンスです。が、先にも描いたように本当の本能、才能、直感だけで作れる作品というのには限りがある。誰でも自分の能力を限りないものとして人類に貢献したい。そうするためには、やはり作り手側には高い理念と厳しい自己規制、コンセプト、鍛錬、試行錯誤、人生の投影と提案がなければらないと考えます。
同時に、鑑賞者はそれを芸術と見ようが娯楽と見ようが、はたまた路傍の石や雑草と同じに見ようが自由です。もちろん、芸術を理解する力というものがあれば、人生はより豊かで哲学的になるでしょうけれど、あまり大上段に構えても芸術は面白くもなんともない。けれども、作り手側にはかなり強い自己規制が必要という、ちょっと矛盾した世界がある。
だから、「芸術(アート)とはなにか」「芸術家(アーティスト)とはなにか」「どうあるべきか」ということは、すっかり決めてしまってはつまらないけれども、それを大いに論じる事、言い放つ事はとても重要でステキな事だと思います。
だからこそ多くの偉大な先人達が様々な解釈、持論を持って取り組み、一定の、誰もが納得できる答えを出してきているわけです。


そんな訳で、ことさらここで私が「アートとは何か」などと新たに何かを構えなくてもいいようにはなっているのですが、しかしやはり今再び「芸術とは何か?」という問いを、もう一度投げかける必要がある時代にさしかかっているのではないかと、直感的に感じています。
直感とはたいていの場合、論理の飛躍を起こしているので、言葉にすると意味不明瞭になりがちで、一言で済む様な話にはなりません。しかしその飛躍を恐れずに言えば、次の様な前提条件が言えます。


1)20世紀の先人達が到達した芸術の目標や意義はある程度達成された。
2)その延長で今後も芸術運動を続ける事は無意味になりつつある。
3)それを超えるさらに大きな潮流が求められている。


(続く)

2011年5月4日水曜日

スイートピー




スイートピー/F20/2002年

超人は神様を頼るほど弱い

 

人はそれぞれ何かしら荷物を背負って日々過ごしています。
あなたはどんな荷物を背負ってますか?
 
私は例えば、すぐに体調崩して寝込む体質。 

3歳の頃から。
月一ぐらい。

今度こそ自分は死ぬんじゃないか。 
こんなに苦しいなら死んだ方がマシだ。 

と何度も思っては、七転八倒しておりました。 

いまだに生きています。 

まあ、その苦しみがあったからこそ 
「神の声を聞いた」のも早かったのでしょうか。 


元気な時の私を知っている人なら、強烈な氣のエネルギーをご存知でしょう。 

でも、シオシオの時の私をも知っている人は、さらに 
そのギャップの大きさに、いつも首を傾げるのであります。 

この人は、一体全体、健康なのか不健康なのか、虚弱なのか超人なのか。 


超人です。

超人と言えば、ニーチェ。
ニーチェはバカだ。
当時ニーチェに喝破された時代の人間はもっとバカだ。

ニーチェを信じるなかれ。
狂人となりもだえ苦しみながら果てることが強さではない。

神を盲信するのもバカなら、自己を肥大化させるのもバカである。


生きるということは、弱いこと。
人間は弱いもの。

私は弱い。

神を頼るほど弱い。
そして弱い人間ほど強い。
なぜなら神様と繋がっているから。

人が弱いながらも自ら決めた通りに生きられるのは
神という概念を神からもらい、そしてその概念と
実際に話ができるから。

神様を宗教と短絡的に結びつけてしまう人には
この意味は分からない。

でもね、たおやかな信仰を持つ人は美しい。

仏様でも神様でもイワシの頭でもいいんだよ。なんだっていい。
宇宙でもいい。
大切なのはその力だ。

守ってくれる
その力。
それを断ち切るも使うも自分次第。

ありがとう。

2011年5月3日火曜日

空のかなたから

かつてない不安と不明瞭
混沌の中に安らぎを見る

賢者が賢者でなくなり
貧者が2つに分かれる

空から来るもの
その本当の意味を知る者はわずか

殆どの者は嘆くだろう
そしてわずかな者は、来るべき栄光を
それに見て驚き怪しみ、そして歓喜に変わる。