2011年4月4日月曜日

天命

人には天命というものがあり
その天命に沿って生きた時に
これはちょっとスピリチュアルな話になりますけれど
人は初めて一つの魂として昇華のようなものを遂げていきます。
少しだけ自分自身の事を話します。
私は2002年から2003年にかけての期間
かなり長い瞑想の生活を送っていた事がありました。
その期間、当然様々な気づきやメッセージも受けるのですが
その中で天命について受けたメッセージは
特に繰り返しが多く
またエネルギーの強いものでした。
それから周期的に
また断片的に
そのメッセージは私に降って来るのです。
言葉にする事がとても難しいのですが
(気付きやメッセージの多くは言葉ではなく閃きとして瞬時に大量に来るため)
でき得る限り、それをここに記します。
天命
それは、あなたの魂と世界とを結ぶ掛橋だ。
それは常に隠されている。
それは常に試練と共にやってくる。
それはそう簡単には見つけることができない。
それは自分で見つけなければならない。
それを見つける作業は苦しく試練に満ちている。
それは極限状態で見つけられる。
それはやりたい事の中にヒントがあり、しかしそれは答えではない。
それは喜びに満ちたものであると同時に、逃げが許されず、全くもって楽でない道だ。
それを見つける時期は、早過ぎる事も遅過ぎることもない。
それを見つけた時、あなたは過去と現在に絶望を感じ、同時に希望を感じるだろう。
そして甘美な喜びに包まれて恍惚となるだろう。
それは常に自分の輝かしさや甘美な時の過ごし方と関係がある。
それは安寧とは無縁である。
それを全うしようとするときも、度々極限状態におかれるだろう。
それによってあなたに課せられる苦悩や障害は、克服ではなく手放すものである。
それは全く考えなくても知恵が出るものである。
それに沿って生きる時、あなたは生きる喜びと、爆発するような高揚感に満たされる。
それは最高の犠牲心を生む。
それは自我とは無縁でありながら、個であることを厳しく要求される。
私が言葉にできるのはここまでです。
こんなにしつこく書いてみても
まだ何か表現は足りない気がしています。
そして、こういう事に気づいたからといって
私自身でさえも自分の天命について、完全に明確になった訳ではないのです。
つい数年前までは本当に混沌として分からないものでした。
最後に、私の天命は何でしょうか。
それは、美と祈りです。
美しきものを探求すること、そして祈ること。
この2つの事によってのみ人の役に立ち得るという
絶望感と希望感がないまぜになったようなもの
それを、私は日々天から(神から、仏から)打ち付けられています。
それ自体は決して悲観でもなければ逃げ出したいものでもありません。
それはむしろ私にとっては甘美なものなのです。
この2つの事象は、とても曖昧です。
美といってもとても広い。
さらにここから自分だけのものを見つけなければならない。
祈りについてもそうです。
ただ祈るという事だけなら、誰でもやっている事です。
それを天命とするとはどういうことなのか。
ゼロから考えて、試していかなければなりませんでした。
しかしそれらは、全て過去または現在に、自分がやって来た事の中に
そのヒントが隠されています。
天命を見つけるためには結局
それらを再度、片っ端からやり直してみるしか他に手がないのかもしれません。
最終的には、苦悩にのたうち回りながら
「自分にはこれしかないのだ」
と、まるで自暴自棄のような言葉と共に出て来る可能性が
とても高いと私は思っています。
天命とは何か
生涯をかけて、宇宙の真理のために、人への愛のために
何をすべきかという事に他ならない
それは我欲を越えたものだ
自我や常識、利欲による計算思考が入ったとき
それは輝きを失い、天命に至る道は全く機能しなくなる
我欲を越えてこそ、天命は全てを私たちに与えてくれる
天命を全うする才能と能力がありながら
天命を知ろうとしない者には試練が与えられ続け
天命を全うしようとする道には常に試練が与えられる
どっちにしても、人は試練の中をもがきながら進んでゆくのです。
どうせなら、したい事の中に天命を見つけて下さい。
どうせいろんな人に迷惑や世話をかけながら生きるのですから。
私もです。いつも、とてつもなく。
それを思って、あなたも生きて下さい。

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