2011年12月15日木曜日

今日もリーディングセッション

どんな状況でも、目標や夢、それはワクワクすることである必要はありますが
それを忘れずにいさえすれば、あとは楽しく過ごせるのです。 

私のクライアントは、みんな素直で素晴らしい。 


悩みを持って私のドアをノックする。
荷物を全部置いていく。
セッションで、身も心も軽くなって、明日が見えてくる。
そしてどんどん卒業してゆく。 


素直に人生を楽しもうとする人はみんなセッションから卒業できている。 
何よりも嬉しい。 

素直さと、楽しむ心こそが、その人の幸せを作り出す。 


今日もまた、ドアを叩く音がする。
苦しんで、やっとの思いでたどり着いた誰か。
悩みはなんですか? 

大丈夫。 
素直な人は、どんどん良くなる。 

素直になれない人は来ればいいと思う。 
かたくなな心を解いてあげる。 

そして素直になる。 
素直になると楽しいことが増える。 

そうすれば明日が見えてくる。 


2011年11月1日火曜日

心のみちびき地蔵(地震予知の話)

連続Tweetした内容を、まとめ、加筆修正して上げておきます。


2011年は、これまで私たちが体験したこともないような地震、そして大津波、原発の事故、大災害と悲劇が日本を襲いました。
実際に被害に遭われた方々のみならず、被災地から遠く離れたところに住む多くの人々の心にも、深い傷を残す出来事となりました。


また地震が来るのではないかと不安に震えている方も多いと思います。2004年のスマトラ島沖地震がそうだったように、プレートの大地震は必ず大きな余震と、近隣のプレートの大地震を呼び起こすからです。


311以来、私の元にも「また地震が来るのでしょうか?」「いつ頃来るのでしょうか?」というメールやメッセージがかなりの数来ています。


全てにきちんとしたお返事ができずに誠にすみません。
気持ちは痛いほど良く分かります。誰もが知りたい事です。
で、申し上げておきますが、私は地震予知はできません。ですのでお答えできないのです。分からないのです。たとえ分かっても言わないと思いますが、何しろ分かりません。


これまで幾度となく私が申し上げているのは、地震がいつ来るかとかどこに来るかというのは、科学的にも経験的にも体感的にも動物的にも超能力でもオカルトでも、100%の予知は不可能なのです。「どこそこで明日起きる」などというのはデマかまやかしの類だということです。




身近な例で言えば、部屋の、床の上に不安定に積み上げた本の山が崩れる日時を、あなたは正確に言い当てることができるでしょうか。「不安定に積み上げた本の山」というのは、本の山が崩れる、つまり地球で言えば「地震が起きる可能性、を高くはします。もしも家が安普請で、家の外をクルマやトラックが通っただけで家が揺れるとか、部屋の中を歩いただけで床がきしむとかそういう状況があるなら、本の山が崩れる確率はさらに高くなります。


地震が「明日起きる」「何日以内に起きる」と言っている人の多くは、山積みの本を前にして、家の前をトラックが通ったり、近くをネコが通ったりした現象を指して「だから起きる」と言っているに過ぎません。


繰り返します。
具体的な地名や日時を挙げて、大災害が起きるという予言予知は、どんな大科学者にも、どんな超能力者にも不可能です。断言します。


私の身近でも、「2011〜2012年頃に人がたくさん死ぬ」と予見した人はいます。彼らはとても真面目で善良な人です。しかし彼らですら、それがどこで起きるか、いつ起きるかまでは分からなかったのです。


そういう予見ができる人は善良ですから、分からない事まで分かるフリはしません。そういう人ですら「関東あたりじゃないか」という、先入観念を振り切ることはできませんでした。


私は、地震は起きないと言っているのではありません。地震は起きます。しかし日本列島には、山積みの本がいたるところにあります。どこで明日大地震が起きてもおかしくないのです。ですが、だからこそ「明日、どこそこで起きる」という予言や予知は、無意味なのです。


地震は今日も起きます。明日も起きます。地殻のエネルギー放射はとどまることを知りません。


だからといって、私達が無力だというのではありません。


災害の危険性可能性を言い、対策を練る事は大切です。が、やたらと具体的な予言はいたずらに人を惑わします。科学的であろうとなかろうと、確率の低い(なのに、日時や場所の特定がやけに具体的な)予言や予知のたぐいは、かえってそれぞれの直感を鈍らせてしまうということを言いたいのです。


地震が起きてもあなたは護られ、起きなくても護られます。あなた自身を守る力が、あなたにはあるのです。


地震の被災地においても、数キロ四方の差で甚大な被害を受ける場所と、全く被害のない場所があります。そして全く被害のない場所に住んでいる方でも犠牲となる方はおり、甚大な被害を受けた中で生の奇跡を体験した人もいます。


私が長年いろんな人に言い続けている事の一つに「その場所にいたいかどうかという直感を大切にしてください。」というのがあります。これは災害に限った事ではありません。土地の氣は、数年〜数十年単位で大きく変化し、人間に快不快や感情、情緒に影響を与える力を持っています。


それは数十メートル四方単位であります。道路や家の配置が変わっただけでも変化します。それが数キロ四方単位で同じ様な氣が渦巻いているとすれば、その地は住むに適さない、あるいは少しの間離れた方がいい、というものです。これを私はずいぶん多くの方に伝えてきました。


それでもその精度はせいぜい絞っても数年です。そして災害と関係するとは限りません。今回の大震災で被災地となった場所に住む何人かに、引越しを薦めた事がありました。でもそれは今から3年以上も前の話です。「災害が起きるから引っ越せ」ではないのです。単にその人の周囲の氣を読んで直感で見えただけです。


つまり、災害予知というのは、災害そのものを見る事はできないということです。できるのはその人に限定した未来の映像、そしてその人を今取り巻く氣の渦、そしてその土地の氣。この3つの予見のみです。これはほとんどの能力者に共通する普遍的なものだと私は感じています。


どんなに超能力を持った人でも、震源を言い当てることはできません。しかし目の前の人を通してみれば、その人が受けるであろう運命を軽くするような予見をすることはできるでしょう。つまり、「地震は起きますか」には答えられなくても「自分はここにいるべきか」ぐらいは答えられるということです。


1つだけ言えることは、日本列島の中でも例外的に災害や試練の起きにくい土地と、災害に限らずとも様々な試練が起きやすい場所というものは、科学的検証に頼らずとも判別できるということです。興味深い事に、それは土地の氣に影響された「人の氣」に如実に現れているのです。


私は今回の大震災の被災地の一つで少年期を過ごしましたが、そこにはみちびき地蔵という、恐ろしくも悲しい伝承があります。今回の震災で有名になりましたから詳しい説明は省きますが、みちびき地蔵というのは、死者を見せるという怪談のような話だけでなく、津波から人々を救うお地蔵様としてその土地では認識されています。しかしみちびき地蔵は、全ての人に津波を教えることはありません。めいめいに教えるだけなのです。みちびき地蔵が見える人にだけ教えるのです。


それは「自分にとっての直感、自分にとって必要な運命」です。


大切なことは、予言を信じて逃げる事ではありません。それでは逆に、自分の中に安全バイアスを産み、本当の危機に対処することができず、かえって危険な目に遭うでしょう。


回避は常に「何となく」来ます。なぜか回避されるでしょう。心の声に謙虚に耳を傾けさせすれば。みちびき地蔵は全ての人が持つ能力です。


ですから、地震が起きるかどうかを誰かの判断に頼るのではなく、愛に満ち笑いと思いやりや感謝にあふれた生活を送り、直感に従って生活して下さい。


私が直接知る、震災で奇跡を体験した人たちは皆そうです。
そして、心のみちびき地蔵の導きによって「何となく」「なぜか」行動し、数メートル、数分の差を体験したのです。

2011年8月31日水曜日

自画像2011


自画像2011/SelfPortrait 2011
F12/2011/Oil painted on canvas・佐藤千洋(ChihiroSatow)


全ての表現は
写実に立脚していなければならないことは確かだが
写実すればエラいという訳ではない。
写実的表現に終始しようとして行われた写実表現は
決して、何一つ、真実を捉えてはいない。
何一つ描かれてはいない。
それが写実的であることを誇れば誇るほど
それは嘘をついている。

だから私は、真実を描かなければならない。

真実とは、写実に立脚しながら
それを乗り越えて、それを否定して
全く新しい境地に到達して
初めて見えて来るもの。

私の目は真実を見る。




2011年8月26日金曜日

Portrait at the villa


Portrait at the villa (201107)

佐藤千洋(ChihiroSatow)

F30/2011/Oil painted on canvas

あなたと私の喜びは、決して定義も定量化もできないものです。
形式的な自慢やとりすました振る舞いで自分達の存在意義を
確認しあって安心することしかできないお上品な連中から遠ざかり
あなたと私は、本当の喜びを味わうのです。



※ご希望の方にはお譲り致します。

2011年8月4日木曜日

困難に立ち向かうか逃げるか。流れに身を任せること。

困難から逃げるな、避けるなと言います。
そのこと自体は、状況を打破するためには確かに重要な要素のように、一見聞こえます。

でもその前に。

困難には2種類あります。
ひとつは積極的に立ち向かう価値のある困難。
もうひとつは、今すぐ立ち向かってもあまり意味のない困難。

その困難が、立ち向かう価値があるのなら、あなたは状況を打破して前に進む事ができるでしょう。あなたを取り巻く環境や心の問題を一気に解決してしまうかもしれません。あなたの人生は挑戦と勝利に満ちる事でしょう。

もしそれが立ち向かう価値のない困難だったらどうでしょう。それに真正面から立ち向かうことは、あなたを疲弊させるばかりです。心配と労苦、不安で満たされるでしょう。自分のエネルギーを取られたと感じ、時間と労力の無駄を感じるかもしれません。立ち向かうべき困難が現れた時に、それに立ち向かい勝利を納めるほどの力も削ぎ落とされて、本当に辛くなってしまうかもしれません。

立ち向かうべき困難と、そうでないもの。その区別を流れの中で判断すること。
これが成立して初めて、私たちは困難とつき合うことができるのです。

では、困難をそのように区別するにはどうしたら良いのでしょうか。
立ち向かう価値のある困難は、必ずあなたの目標や、本当にやりたいこと、本音と関わりがあります。

例えば、あなたはある目的地に行かなければなりません。
そこにはあなたの愛する人、大切な人が、あなたの到着を今か今かと待っています。

しかしそこに行くためには、必ずある場所を通らなければなりません。
そこでは、もしもチャンスさえあればあなたから金品を奪ったり、嫌がらせをしようとする追いはぎが、あなたの通るのを今か今かと待っています。

この時、あなたは愛する人の元に向かうことを一瞬はためらうでしょう。
しかし、次の瞬間には、いろんな考えが頭を過ります。
「そこを通らずに目的地に行くにはどうしたらいいか」「追いはぎに遭遇しないようにするには」「防衛できないか」「戦うか」など。そしてあなたが会いたいと思う気持ちが強ければ強いほど、「あまり心配してもしょうがないか」という気持ちが芽生えて来る。「その時はその時だ」。
そして、意外と困難を軽く克服してしまい、あなたは大切な人に会える。


逆に、目的地にいるのが、あなたが借りたお金を返しに来るのを、今か今か、遅いぞと思って待っている相手だったとしたら、あなたの気持ちはどうなるでしょうか。
「追いはぎに会わないように」を考える気持ちよりも、その困難の大きさと、あなたの果たさなければならない責任との狭間で、緊張し、アイデアも出ず、あるいは気がヘンになってきてしまうかもしれません。
だいたい、困難を克服してもあなたが得られるのは、あなたの信用が保たれたという現状維持ぐらいなものです。せいぜいホッとするぐらい。

乗り越えようとする力が湧く困難には、必ず自分自身が「これのためならこれぐらい!」「よしやってやろうじゃないか!」と思える熱情の裏付けがあります。つまり、困難に飛び込むのにあまり抵抗がない、心の奥底ではあまり心配していないという心の状態が付いて回るのです。


このことは、その人の特性や「本当にやりたいこと」の本音が隠されています。


立ち向かってもあまり勝ち目のない困難や意味のない困難は、たいていの場合、自分があまり得意でない、好きでない分野の困難だったり、状況が理不尽であったり、社会的な何かに自分を無理に合わせる行為、あるいは正面を向き合うのが本当にキツいと感じるものだったりします。

責任、義務、信用。
とても大切なことであり、守るに値するものです。
しかし、それを人生の価値の中心に置いてはなりません。

その先にあるものを見る必要があります。
それが、目標であり、夢です。
夢、目標は、動機です。
それこそが困難を克服するエネルギーであり、社会に自分を合わせてゆくための理由でもあります。
ただ従うのではない、ただ立ち向かうのではない。
「○○のためなら多少のことは平気だ」という動機なのです。


これは千差万別です。人によって違うのです。
「あの人が克服できた」からといって自分も克服できるかどうかは別です。



では
立ち向かいたくないが、向き合わなければならない困難が、現実問題として目の前にあったらどうしますか?
積極的に立ち向かう事をやめて、一旦、自分をアイドリング状態にします。俯瞰できるまで。
それは、もしかしたら台風のように身を屈めていれば過ぎ去るものかもしれない。
火災のように逃げれば助かるかもしれない。
誰かが代わりにやってくれるかもしれない。
時間とともにその問題が変質し、克服するのが容易になっているかもしれない。
自分にそれを克服する能力やヒントが見つかるかもしれない。

一時的に責任や信用の問題になるかもという心配や、思考停止を心配するかもしれません。
しかし、本当にあなたがしたいこと、夢、目標がちゃんとあるのなら、それは思考停止でもなければ、責任の放棄にも何にもなりません。必ず然るべき解決がなされ、あなたの名誉は守られます。

あなたの人生に大切なものだけが残り、不要なものは去ってゆくでしょう。
あなたが理不尽だな、しんどいなと思う事ほど、流れに身を任せてしまい、力を抜いてみて下さい。

もちろん、2〜3日で答えは出ません。
もっと気長に。
今は今できることだけ、やりたいことだけやる。

そうしているうちに、いつのまにか解決していることもあるし
以前よりも、なんか自分で解決できそうな気がしてくる場合もある。
そして解決。

夢、流れ。
これらがあなたを守ってくれたのです。




さてところで、これを読んでいる人の中には「自分なら夢や目標など明確になくても、困難などない、あってもすぐに解決できる」と思ってしまう人もいるかもしれません。
そういう人は、生物学的若さを保持していると言えるでしょう。
私流に言えば、まだ天命を受けてないとも言えます。このことは後で説明します。


魚類の多くは、一生の大半を「流れに逆らって」過ごします。水の流れがあると、本能的に(というより生物学的に言うところの走性によって)流れに逆らって泳ごうとします。そして、寿命を迎える寸前になって、その本能が失われます。生のエネルギーが枯渇し、流れに身を任せるようになるのです。そうして魚は一生を終えます。


人間も、動物として生きた場合には似た様な習性があります。
若さの溢れる時期には、常に流れに逆らって生きるエネルギーを持っています。
それが、理由なき困難に立ち向かうことのできる力、能力です。


しかし、それはある日突然失われます。
魚と違う人間の悲劇は、その能力が失われた後も、寿命は尽きずに、さらに数十年も生きながらえてしまうというところにあります。


昨日までの自分は、故なき困難にいくらでも立ち向かうことができた。徹夜でもして、乗り越えて来た。なのに突然できなくなってしまった。何故だ?となる。これが老いなのか?


もしも、魚と同じように、他の動物と同じように、流れに逆らえなくなった時点で、自分の人生はおしまいだ、意味がなくなったと考えるのなら、その人は人間とは言えません。


人間は、流れに身を任せられるようになってからも存分に生きる事ができます。流れに身を任せても、逆らっても自由自在の本当の人生が始まるのです。
日頃私のセッションを受けていらっしゃる方は、もうお分かりでしょう。


人生の第二ステージです。


それは、老いではありません。終了でもありません。
本来の天命を見つけて、その天命に従って生き、世の中を変えて行くという仕事を要求されているのです。
それは確かに、生物学的な老いと共にやってくることが多いようです。
一般的には、「厄年」と呼ばれるものととても連関する例が多いようです。


しかし中には10代でその天命を知って生きる人もいます。
人ぞれぞれです。


未だに故なき困難と立ち向かって疲弊しているという自覚があるなら、天命についてじっくりと考えてみて下さい。
それを見つけるヒントは、状況的制約を全て無視して本当に自分がしたいこと、そして流れに身を任せてみること。


私はいつも同じ事を言っています。
夢想でもいい、妄想でもいい。


その中に必ず、素晴らしい天命が隠されている。
あなたを輝く未来に向かわせる唯一の力です












2011年8月2日火曜日

目に見えない風景

普段、私たちが何かを見ている時、例えば目の前に建っている建物の向こう側にある、もう一つのビルや空や森の風景は、目の前の建物の陰に隠れて目には見えていません。


だから私たちは物の向こう側にあるものを「見えないもの「ないもの」として捉えます。


けれども、実際にはそれはあり、私たちの目との間にある対象物にいろんな影響を与え、またそこを通じて私たちの目や脳、精神にも大きな影響を与えているということは、あまり知られていません。


物の向こう側にある、目に見えていない風景は、時間軸で言えば残像、空間で言えば対象物を飛び越えて、または透過して私たちの目にしっかりと飛び込んできているのです。


全ての空間はそのようにできています。その建物の裏にある風景は目に届きます。これは空間を歪ませたり飛び越えて、または原子と原子の合間を縫って透過してきます。


時間軸で言えば、その建物ができる以前に建っていた古い建物が見えます。そこに住んでいた人の姿も見えます。全ての目に映る風景には、地球がただの空間だった頃からの色と氣と風景がしっかりと映り込んでいるのです。


しかしこれらは、私たちの視覚にはほとんど影響は与えません。意識することもできません。
そして同時に、潜在意識や氣の部分にはしっかりと届き、非常に大きな影響を与えています。


目に見えない風景はとても大切なのです。目に見えないからと言ってなかったことにすることはできないのです。


私が絵を制作する時は、常にこのことに注意して制作しています。私の絵の層には、幾重にも重なった様々な氣と描写が隠されています。


私たちの成り立ちも同じです。
私たちがお互いに見えるものは、皮膚と表情です。


けれどもそこを透過するものは、内臓であり、血管であり、骨です。さらに、その向こうには背後の風景が、見ている人には伝わります。
美しい場所に立っているなら、美しい背後の風景も伝わります。


それと同時に、私たち自身が考えていること、意識していることも伝わります。
さらに育った環境や両親の存在、生まれた場所も伝わります。
先祖の姿も伝わります。歴史が映り込んでいます。




私たちが見ていて「見える」と思っているものは、ごく限られた一部分だけで、本当は見えているものの後ろには、膨大な情報が隠されているのです。


そして、それらの背景そのものが、「今の自分」「今のその物」の真実を作り上げているということを、私たちはもっと認識しなければなりません。


どんなに見栄えが良くても、背景や歴史、本質が何もないものは、結局のところ薄っぺらいもの、嘘で終わってしまいます。


外見を飾り立てたければ、形を気にするのではなく、まずは中身、あるいは背景、歴史に気を配る必要がある。


これは私が様々なデザイン、絵画、人に触れて、年を追う毎にますます確信を持つに至っている事実です。


歴史と言いましたが、過去の事について「嘘も百篇言えば本当になる」というような事を言う人もあるようですが、これは結局のところ全く通用しません。
これによる結果は非常に恐ろしく、そして哀れなことです。
過去の嘘とわかっている事を真実のように何度も繰り返しても、時間軸における景色は全くかわりません。
それどころか、時間軸の風景に歪みを起こそうとする行為は、未来に作用します。
アファメーションの原理です。


例えば実際にはあったかどうか分からない「被害を受けた」という一断面を歴史や事実として強く認識し、それを繰り返すと、それは近い将来に本当にそうなります。


その人を存在させるための背景とは、そこまで作用します。


だから、美しい言葉を話し、美しい人と会い、美しい場所に住み、美しいものを食べ、美しい景色を見、美しい未来を信じる事が、とても大切なのです。しかもそれらは、「見てくれの美しさ」ではありません。中身の詰まった、豊かな美しさです。その美しいものの向こう側にも、美しい風景が広がっているものを見てください。中身のない空っぽの綺麗さはあなたをも空っぽにしてしまいます。


背景が美しいものに触れてください。
目に見えないものが美しいものに触れてください。


それが本当に美しいもの、あなたを美しくし、満たすものだからです。













2011年8月1日月曜日

MEMENTO MORI とCARPE DIEM

私たちの思考や言動の殆どは、外界からの刺激に対する反応に過ぎません。
その時に起きる身体や外界に返す信号(波動)が「氣」です。

氣は一度生まれ外界に放出されると、新しい刺激によって変質しない限り
そのまま他の人や自然界に新しい影響を与えます。これがカルマと呼ばれるものの一形態です。

このカルマが、自分自身を幸せにもし、不幸にもすると同時に
見知らぬ誰かを幸福にしたり、不幸にしたりする力をも持っています。

例えば、一人ひとりの氣が良い国は栄え
あまりよろしくない刺激を呼び起こす氣が充満している国は衰えてゆきます。
富の氣を充満させた国は発展し、貧の氣を充満させた国は衰退します。
喜びの氣を充満させた国は居心地がよく、怒の氣を充満させた国は荒れます。

しかしその氣の最初の出所は、自然現象であったり、気候であったり、地の氣であったりします。それは引いて言えば、宇宙の、天体の動きが元になっていたりするかもしれません。

最終的にその刺激を受けて、もっとも大きな氣を発し、人間が生きる「場」に充満させるのが、人間の魂、精神です。

どんな人も、この氣の刺激から逃れることはできません。


例えば、これはちょっと政治的な話ですが、日本を嫌いな国があったとします。彼らの国の言い分は「日本が過去に自分達に悪いことをしたから」というものです。しかしその大半は事実ではなく、むしろ実際に彼らが受けているのは、自国に住む自分の仲間達の「怒」の感情であり、「貧」の感情です。それはもはや憤怒に近いものですが、それが自分達に向かわないように、外部に排出しよう排出しようとする、言ってみれば自浄作用の一種の様な事になっているわけです。
しかしこの感情、氣の渦巻きとて、元々は彼らの人間性云々のせいではないのです。
この氣を呼び起こす氣の大元が、どこからやってくるかというと、自然、地の氣、天体からなのです。

民意、民度はこうして醸成され、戦争とは、こうして起きます。

日本は、風土的に元々持っている自然の氣は決して悪くはありませんが、地理的にはその憤怒を受けやすい条件にあります。ですから刺激も激化しやすく、氣の渦巻きも、一度起きると大変な事になりがちです。

救いなのは、台風や偏西風が、東の洋上に常に抜けて行ってくれるという点です。台風が少ない年は、逆に氣の滞りに気を付けなければならないかもしれません。

そうしてもう少し自省的に言うならば、もしも私たちが、日本を救い、世界を救いたいのなら、まずは自分自身の反応、言葉、氣を発するこの装置そのものの扱いに十分に注意しなければらない、ということです。


良い氣、望ましい氣は、その瞬間瞬間の人の充実感、歓喜への渇望から生まれます。
それは人の氣の中でもっとも強く激しいもので、周囲に対して、日常与える氣の力の何十倍ものエネルギーを持っています。

日本が世界に誇る文化や志向とは、このような「氣の変質」によって生まれました。
良いものはすぐに日本の氣となり、そうでないものもどうにか変質化してよきものにかえようとする努力。

怒を怒で返してはなりません。
それでは彼らに同化してしまうでしょう。
そうして先の大戦は起きたのです。

怒は私たちと無関係の氣の流れから生まれたエネルギーです。
それがカルマとして渦巻くのを放っておくのではなく、歓喜によって自分達のエネルギーにし
私たちはさらに発展、繁栄することができます。


外界から刺激を受けた時に、それが例えばもしもよろしくない氣だったとして、それに対してダイレクトに「怒」や「悲」を感じる氣だとします。
もしもここで、ダイレクトに外界にその反応を返すことはごく自然なことですが、しかし大きなカルマとなって充満し始めます。

もしもそれをテクニックや努力によって充実感や歓喜に変えるためのエネルギーにできるとすれば、外界の良くない氣は浄化され、変質され、何十倍もの強いプラスのエネルギーとなって私たち自身や外界に帰ってゆきます。


それは一体どのようにして可能になるのでしょうか。
それは、私たち一人一人が、「瞬間」に意識を集中して、今を生きる事に他なりません。

私たちは未来を向いて生きています。そして過ぎ去った過去を記憶しています。この事自体はとても素晴らしい事です。

しかしそのせいで、「今」という瞬間をまるで未来や過去の従属物のように扱う傾向があります。
それ故、目の前の事をおろそかにしたり。意味なく立ちはだかるものに顔をしかめてしまう傾向があります。

しかし未来を司るために、、、というよりも、将来、自分に望ましい氣が到来し、カルマの浄化が行われ、未来を幸福に、歓喜によって生きるためには、「今この瞬間」、私たちは自分を燃やし尽くし、毎日死ななければならないのです。
こうすることによってのみ、人間は生きるという行為を自分から発信してゆけるのです。

これはパラドックスのように見えます。
一回のブログでは到底説明できませんので、今は象徴的な2つの言葉でそれを代弁しようと思います。



ローマの諺、名言の中に、とてもとても有名で、私も大好きな言葉、座右の銘と言っても良い言葉が2つあります。

ひとつは、メメントモリ(MEMENTO MORI)と、いう言葉
「死を覚えておけ」つまり、人はいつか死ぬのだから、今を精一杯に生きようという意味です。
帝政ローマのことわざであるだけに、日本では何故か刹那的に生きろと誤解して解釈されがちですが、全然違います。

その瞬間瞬間を、全身全霊を込めて、有意義に生きる大切さを言ったものです。
日本人は特に、安寧を求めるが故に「今苦労しなければならないのだ」と思いがちの人が多いのです。
しかし、もっと大切なことは、「今、この瞬間を歓喜と全霊によって生きること」だけが、幸福な未来を作るという真理です。

もう一つの言葉で言えば、カルペディエム(CARPE DIEM)。
意味は「その日を摘め」

つまり「未来や過去に何かを託すのではなく、その日を生きなさい」という意味の、ローマ時代の詩の一説です。聖書にも出てきます。
「今を生きる」という邦題のついた、ロビンウィリアムス主演の映画にもなりました。

この2つの言葉は、「今」というものの大切さを強く訴えています。
重ねて言いますが、今を生きるということは、一時的快楽や安寧を求めよという意味ではありません。

それらも大切です。しかし本筋ではありません。針が振り切れたものの見かたです。

今が良ければ未来も過去も考えなくて良いという事でもありません。
今が良ければ未来もよく、過去もよく、今が辛ければ未来も過去も辛いのです。

であれば、今をしっかりと「良くする」ことをすればいいのです。
刹那を生きる、今を生きるということは、今の自分が、いつ死んでもいいように、目一杯の可能性と目一杯の歓喜を持って、味わい尽くし、生き抜く、という意味なのです。

何かをしている時に、明日の心配をしてはなりません。
明日の心配のために、今していることを無意味と思ってはなりません。

あなたが無意味と思えば、この瞬間はあっという間に無意味になってしまうでしょう。

それでも神様は、そうならないようにどうにかあなたを押し留めて、今日のどんな行動さえも、明日の何かの結論に結びつけてくれようとはしますが。


もししたいことがあるなら、「今」してください。そして、歓喜を味わう覚悟をしてください。
あなたが実際に味わうべきなのは、未来のための苦悩ではなく、常に今この瞬間の歓喜なのです。

疲れて眠ることさえも、否定せずにとことんやってください。
眠ることは死であり、再生です。
目が覚めたら生まれ変わります。


そうして「今」の氣を浄化し、歓喜に変えることこそが、全体の氣の流れを変えることにつながります。
そうして怒に対して怒で返す何十倍、何百倍もの圧倒的な影響力で、怒の正体を屈服させることができるのです。

創り続けよ手を動かし続けよ

藝術に宿る氣の根源は
生みの苦しみ
試行錯誤
苦難
焦点の合わされた集中力
パラノイア
シリアスな何か

それら全てが集合し、陽転し、結実し、結晶化する
大気や見るものを浄化するエネルギーとなる。

それは宇宙へと繋がる。

宇宙は、藝術家の想像力によってできている。

地球のサイクルとともに
生まれたり、残ったり、消えたり、また再生されたり。

月とて太陽とて永遠ではない。

けれども藝術は、宇宙を創り出す、最初のエネルギー。
消えてもいい。
また作ればいい。
そうして永遠を創り出す。

自由と尊厳に満ちた全ての自発的創造。

自由であることを恐れず
基準や定量化と戦え

作り続け、描き続け、手を動かし続けよ
出来不出来や進歩なんかに囚われず

藝術家の仕事は、想像と創造
その行為自体が、創造主だ。

創り続けよ、手を動かし続けよ。

2011年7月21日木曜日

復活(ANASTASIS)



復活/ANASTASIS

Chihiro Satow

F30/2011/oil painted on canvas



ぼくらは復活する。何度でも。
天を突く炎となって。





※ご希望の方にはお譲り致します。

2011年7月19日火曜日

インドの蛇使いと女



インドの蛇使いと女/Snakeman & Woman
・佐藤千洋(ChihiroSatow)
F20/2010-2011/oil painted on canvas

2011年7月9日土曜日

打ち響くもの(2)

そして愛以外、何の意味もなくなる世界が来る。

愛に生きてください。
愛とは何かを考えるのではなく
ただ、愛してください。

一人だけでなく、自分が愛せるだけの全ての人に
最大の愛を分け与えてください。
分け隔てなく。

それは、愛さなければならないから愛するのではなく
お互いに惹き合うから
同じ時を過ごしたいから
必要としているから
愛したいから愛するように。

家族や恋人だけでなく、いろんな人を愛して下さい。
家族や恋人だけを、友人だけを、限られた人だけ愛するように
あなたは誰かに言われていたかもしれない。

誰かを愛したら、他の人を愛してはいけないとか
誠意によってどちらかを選びなさいとか
そういうものは、諍いや争いを生んで来た者達の望みであって
私の望みではありません。

狭く、排他的で嫉妬に満ちた、所有や従属の洗脳から解き放たれなさい。

あなたの心は本当は、もっと自由で広い。
あなたの心は、全ての兄弟、全ての姉妹、全ての恋人を愛せるようにできているのです。

愛したい人を愛し、愛する人といるように。
それが世界中に連鎖するように。
みんな。

さあ
もう戦わなくていいんですよ。
もうすぐですからね。


愛しています。

愛しているから美しいのです

美しさというのは
何か難しい理論や基準があって
美しさが決まるのではありません。

結局のところ、美しさを突き詰めていくと、愛。

愛のない美しさというのはない。

宇宙の中で、生命を
生み育むという使命を与えられた私たちは
全て愛でできている。

宇宙の愛、神の愛、人間の愛。


愛は命。

美はその命をより伸びやかにしてくれる。

人間が今まで調和と思っていたものよりも
もっと深い場所で
それは調和と生命力を高らかに歌っている。

意識を愛に集中してください。

愛したいもの、愛したい人、愛したい時、愛したい場所。

それは全て美しいのです。

美しいから愛したいのではない。

愛したいから、美しいのです。

愛しているから美しいのです。

愛すべきものは、全て美しい。

愛しています。

2011年7月7日木曜日

マクロビオティックはどこまで緩くできるか(2)

マクロビオティックの全てのテーマには、先に書いた「身土不二」という考え方に基づいた「地方」「気候」という概念の他に、「季節」と「労働」が深く関わっています。

それは、「進化した自然主義」でもあります。

マクロビオティックは、決して「昔に戻る」ことがいいとしているのではありません。

「マクロビオティックはストイックで辛い」という人がいますが、それはマクロビオティックを教条的に、あるいは「時代遅れ」「時代に合わないもの」として捉えているせいかもしれません。

本当は、マクロビオティックは、進化した食事法であり、とても楽しい食事法であるにも関わらず。

その地方で生きた人達が編み出した自然食、伝統食に加えて、新しい時代の健康や長寿、不病を目指した、科学的で神秘的な食事療法が、マクロビオティック。

辛いのなら、それは自然でも進化でもなんでもありません。
多くの人が、「病気を治すための食事療法」としてのマクロビオティックと、健康な人がより健康でいられるための食事法であるあるマクロビオティックを、ないまぜにしているという事実があります。

本来は、健康な人が食べたいものを食べれば、それが結果としてマクロビオティックな食事、健康になる食事法にならなければならないのです。

そして逆説的に言えば、本来のマクロビオティック的な食事を敬遠して、ファストフードに走ってしまうとすれば、それはその時点で既に「健康ではない」→「食事法の矯正が必要」→「厳格なマクロビオティックが必要」ということになってしまうという事なのです。
本来の健康体なら、ファストフードが食べたくてしかたがないというような事は起きない訳です。

それでは、健康なときのマクロビオティックとは、どうあればいいのでしょう。まさにこれが、「どこまでゆるくできるか」という問いに対する答えと同じ答えを持っているわけです。


私はこの事を、自らの身体を使って何年にも渡って実験を続けています。
私はもともとアレルギー体質で、極陰や極陽の食品には子供の頃から劇的な反応を示す体質を持っています。
その経験、実験から得た、現時点での結論は、次の通りです。

マクロビオティックは、マクロビオティックの基本的な条件に加えて、以下の条件を守ることで、よりイージーに進め、維持することができる。

1)スローフードの概念に沿っていること(ファストフードや工業化された食品を排除すること)
2)全粒穀物を摂れない場合は、半定期的な断食(ファスティング)を行うこと(一年に一度程度)
3)季節感覚によって食べたい料理を世界中に求めること。(夏なら東南アジアの料理、冬なら北欧の料理、という具合に)
4)動物性のものの摂取は一週間単位でマクロビオティックの基準に準拠していること。(一日でかなりの量を食べたら、残り6日間で総量規制する)
5)偏食をしない(旬だからといってそればかり食べない。伝統的食事だとこれが往々にして起こる)
6)劇物を避けること(劇的香辛料や添加物を排除すること)

以上の6つの点を守っていれば、より緩やかで自由なマクロビオティックライフを楽しむことができることでしょう。

自決すること

私たちは、自決しなければなりません。
自決とは一体何か。

死ぬことじゃありません。
一人で生きて行く覚悟の事です。

政府とか、肉親とか、共同社会とか
配偶者とか、友人とか、そういうものに頼らなくても
自分は、生きてゆくのだという覚悟です。

実際には助け合いながら私たちは生きています。
一人では生きられません。
しかし、それは、当然のことではありません。

それは、ありがたく、奇跡です。

誰かに頼って生きることが当然だと、もし思うのなら
その途端に、あなたの全ての美徳は失われてしまうでしょう。


私たちは、基本的に、孤独なのです。

孤独だけれども、神や宇宙の大原則がある。
それによって自分は生かされ立っている。

そして、自ら決して生きるのです。
誰かの決定に無条件に従ってはなりません。

あなたは、神と神に繋がるあなたの決定にのみ従わなければならないのです。
このことを、まず現世の前提として忘れないでいて下さい。

自由な世界

競争や占有は止み

因習や束縛から解放され

博愛と協力、自由と平和と調和

美を追及して健康に生き

精神的成熟と平等に生きる。


義務や束縛はなく

ただ自らの意思によって

好きなことができる。

笑い、微笑み、楽しみ、喜び、生きがい

それが献身や貢献に繋がる。


生活を維持するためではなく

誰かに愛を注ぎたいから

慈愛のやりとりをしたいから、そこに出かけ

身体と頭を動かして生きる。

美と豊かさを、自由に表現し

それを自由に体験することができる。

その時が訪れようとしているのです!

2011年6月20日月曜日

打ち響くもの(1)



気の進まない義務や責任からは遠ざかって下さい。
それを強要するものから遠ざかって下さい。
豊かであることを念じ続けてやりたい事だけを一心に行って下さい。
美しいものから目をそらさないように、動き続けて下さい。
逃げなさい。
2014
その変化に明確には気づく者は少ない。
3つの災害。
そこには行くな。
アーカイブの損失。
物質の終焉。
愛と自由。
価値観の逆転。
モラルやルールに縛られないように。
毀誉褒貶に囚われないように。
怒りの氣がうずまく場所から遠ざかって下さい。
時代の断層、文明の断層。
出番は近い、でもまだ。急がない。
愛で溢れて下さい。
超人。
700人。
2040-2100。

2011年6月10日金曜日

マクロビオティックはどこまで緩くできるか(1)

マクロビオティックでは、「玄米菜食」という基本概念の他に、いくつか大切にされているものがあります。

その中に「身土不二」というものがあります。

人間は、食べ物でできている。
食べ物は土とその土地の気候風土から生まれる。
つまり人間はその土地の気候風土に合わせて食べ物を選ばなければならない。
人と土は切っても切り離せないものだ。

という概念です。


とても大切なことです。私もセッションでことあるごとに話している事です。
ですが、あまり神経質になりすぎると、豊かな食生活を否定してしまうことにもなりかねません。

マクロビオティックの線引きは、本来は厳格です。
しかし同時に、優しさ、許し、許容という精神を培うものでなければ、それを継続する意味はなくなってしまいます。

だから私は常に「ゆるめにやればいいですよ」と言います。

基本は玄米、そして地元の野菜中心の生活。なるべくオーガニック。
「摂らない方がいい」というものはなるべく摂らない。


一方では、こうして一度基準を緩めてしまうと、自己管理がどんどん難しくなってしまうという声もあります。それまで玄米菜食を中心にしていた人が、ある日蕎麦が食べたくなった。蕎麦はマクロビオティック的には何も問題はありませんが、「粉もの」というちょっとした弊害を持つ特徴もあります。マクロビオティックでは、製粉したものはあまり摂らない方がよいというのがあります。でもたまにならまあいいのです。

ところが粉ものというのは仲間を呼ぶ傾向があります。
次は必ずうどんが食べたくなるんですね。
うどんはさらにマクロビオティックから外れます。

うどんを食べると、パンやラーメンが食べたくなります。
パンやラーメンを食べると、濃い味のスープが欲しくなります。
濃い味のスープを味わうと、陽の強い味がどんどん欲しくなります。
肉や魚などの強陽の食品が多めに欲しくなります。
強陽食品を摂ると、必ず対極の強陰、例えばアイスクリームや乳製品などが欲しくなります。

気がつくと、マクロビオティックとは無縁の食生活に変わり果てている
そういう事も珍しくありません。

こうなると玄米菜食に戻るのがとても大変になります。


かくいう私もしょっちゅうです。
だから、やっぱり線引きは重要なのです。
一体、どこにその線引きをしたら良いのでしょう。




2011年5月27日金曜日

本当に予言できる人

予言できる人というのはたくさんいます。
もともと人間にはそういう力が備わっているのです。
女性に多いかもしれません。
物事を先入観や生半可な知識による直感の妨害を受けずに済む人が多いから。
「守る」という能力が高いから。

ということは、男性であっても、先入観や生半可な知識で頭の中をかき乱されなければ、予言できるかもしれませんね。

ただ、ちょっとまって。
予言には注意が必要です。
その多くが「恐れ」「恐怖」に基づいている場合が多いからです。

そういった巷で言われる、災害についての予言の多くは
そういった恐怖の直感による防衛反応である事がほとんどです。

大災害が起きる、地震が起きる、地球が滅亡する。

この感覚は、実はややオーバー目に潜在意識に訪れる、ある種の増幅感覚です。
外れて元々。
用心のために人間が元々持って生まれた防衛本能なのです。
本当は誰でもできるのです。

災害を予言できる人が偉い訳ではありません。
むしろ恐怖直感が潜在意識にとどまっていられずに意識上に芽生えて誰かに言わずにいられなくなるというのは、資質として大問題です。
そんなものは予言でもなんでもありません。

もう一度言います。
予言できると言って、何かを言う人のほとんどは、直感本能による恐怖直感の増幅を感じ取って、それを自分だけに備わった能力と勘違いしてしているだけです。


本当に予言できる人というのは、災害や地震の予見には疎い人が多いのです。実は。
というよりも、本当に予言できる人は、災害予言はおおっぴらにはしません。
「予言です!」とか「こんな予感がします!」などと言わないし思わない。

なぜなら、そんなものは自然に芽生えて来る感覚だから。

自然に災害から「自分が遠ざかるように」行動してしまう。

これが本当に守られている姿です。

「地震が来ます!」「みなさん逃げて!」などとやる人は、自分の恐怖直感を意識上に上らせてしまう。
無意識から意識上に上らせるということは、他人をもその恐怖直感に巻き込んでしまう。
そうすると、他人の感覚も狂わせてしまい、正常な直感判断をできなくしてしまう原因になります。

だからいたずらに災害予言をする人というのは、私から見ると、実に修行の足りない、業の深い人だなあと思います。



災害とは、今話題になっている言葉で言えば、「てんでんこ」のものです。
災害から守られるということは、人それぞれの直感や生きる役目に応じた、無意識による守護です。

善悪や行いや予言ではありません。

住む場所、その日の行動、思い、事情、タイミング、直感、情報との長年の縁。
それらは全てその人の自主的な人生の役割と必然から生まれている。

その全ての組み合わせによって、その人の運命が、その日を分つ。
悲しくて辛いけれど、それは予言によっては決して救われるものではないのです。

自分が恐怖を感じ、心配するのは自由。しかしそれで守られ、逃げられるのはあなたとあなたの大切な人だけです。

自分の恐怖直感を意識上に上らせ他人を不安に陥れる事で、運命的に関係のない他人の判断に理性の邪魔や恐怖直感のいたずらな増幅を起こすことは、その人を死に至らしめる危険性を増すことはあっても、決して助けにはなりません。

だから、力のない者が予言をしては決してなりません。

本当に予言ができる人の言葉は重く、少ない。
今この瞬間もです。

神は全て見ています。

2011年5月19日木曜日

2011年5月10日火曜日

サバンナのサルネリ/SARUNERI





サバンナのサルネリ/SARUNERI
F8/2010~2011/oil painted on canvas
SOLD

2011年5月6日金曜日

来るべきアート(2)

「芸術の役割とは何か」
時代を経ても変わらない、芸術の存在意義、役割の一つに、美の創造があります。美とは人間の命の根幹の一部を担うものです。意外に思われるかもしれませんが、住む場所やご飯がなければ生きられないのと同様、実は美もまた、私たちが生きるためににはどうしても欠かす事のできない要素なのです。多くの人がそこに気づかずに過ごしていることは確かです。特にこの国ではそのように思われがちですが、それはこの国に元々深淵で豊かな美が当たり前のように横たわっているからです。元からふんだんにあるのに、わざわざ自ら作り出したり大切に思う事はありません。しかし、自然の美のみに頼っていては人間らしい生き方はできません。人工物にこそ、本来は美が必要なのです。美は、目や耳を通じて私たちに訴えかけ、私たちの心に大切なものを植えてゆきます。この国では残念ながらまだ人工物についての美の研究や理解が足りないと感じています。
美が私たちの目の前から持ち去られたとすれば、私たちは一ヶ月と生きることはできません。何に美を感じるかという個人差の問題はさて置くとしても、人にとって、美とは生きるエネルギーの根幹を為すものなのです。それを私たちは自ら作り出し、美しくない物は美しく変えてゆく努力を惜しんではならないのです。それを担うものが、古来からの美術、芸術です。そして、そこから派生し、発展し続けているのが現代の芸術です。




「芸術の進化とは何か?」
現代芸術が、芸術としての独自のアイデンテティやポジションを変容、定着させ始めたのはそう昔の事ではありません。変容を遂げて新たな存在意義を見いだして大きく発展した明確なターニングポイントは、産業革命の時代でしょう。それは、大量生産や功利主義へのアンチテーゼ、抵抗運動としての側面も持っていました。また非常に大きくゆっくりとしたうねりを持つ、人間回帰運動の一種とも言えるでしょう。とにかく全ての芸術運動に共通していたのは、人間の存在意義とそのスーパーパワーの挑戦です。例えば一人がどこまで時代を超越した感動、希少性を創造し得るか。美が人に与える価値観の変容。20世紀はそれがピークを迎えました。そして一方では、複製という形での産業化、大量生産、大量消費という現象も起きています。
この矛盾する2つの現象を、どちらも芸術と呼んでいるのが、現在の私たちの姿です。すなわち芸術が機械文明を取り込んだか、機械文明が芸術を取り込んだのか、古い「人間回帰」というテーマが、機械や先端技術と対峙するものであるというような従来の考え方では芸術を捉えられなくなって来ている。20世紀の一時期「芸術なんてどうでもいい、芸術と大上段構えてしまえば芸術でなくなる」というような突き抜けた様な、あるいは無力感のような話も聞かれた事がありました。それは結局のところ、効率的機械文明の極みの中で、人間回帰というものが機械文明と対峙しなくてもよくなってきた、そして対峙してきたはずの芸術も目標を失い、戦闘を放棄する宣言であったとも言えるでしょう。その結果、芸術はエンターテインメントと同一視化され、より手軽で分かりやすいものがアートと言われるようになってきた。
しかし、元来アートは大衆や大多数が好むものを提供するために存在して来た訳ではないのです。時にそれは少数にしか理解されず、あるいは長くは無視されながら、ゆくゆく世界の潮流、人の生き方を決定するための先頭に立つ役割をしてきています。
そういう意味において、芸術はエンターテインメントとはやはり一線を画し、啓蒙、解釈、熟考、鑑賞、永続性というものに耐え得る先進性をもって存在しなければならないことは明白です。しかしながら分かりやすいもの、流行でもてはやされるものの中に、その鑑賞に耐え得るものがあるのだという論が、現代のエンターテインメントアートの言い分でもあるのです。
そういう意味において、旧来芸術と呼ばれて来た芸術家の古い解釈や感性は、危機に瀕していると言っても過言ではありません。21世紀に入ってからはさらに一層、鑑賞者も創作者も、一人一人が真剣に芸術のレゾンデートル(存在理由)を探す必要性に迫られているように思います。



「来るべき「芸術」とは何なのか。」
もう一度「美」に立ち返って考えてみましょう。美は人間に欠かせないものであり、かつ生き方のヒントやパワーとなるものです。そこが芯です。
さて、私にも「自称アーティスト」という肩書きがあります。アーティスト(芸術家)というのは、たいてい自称なんです。もっとも、アーティストなんていうのは、職業の呼称ではありません。「オレはアーティスト(芸術家)だ!」と叫べば、今日からアナタも芸術家です(笑)
でも、そこには大きな大きな代償があります。経験則、先人達の生き様を通して明確なことは芸術家には、平穏な日々はないという事です。
もう一つの話、絵だけ描けて、上手いねと言われるのは、これはアートでもアーティストでもありません。プロではあるかもしれませんが。それでほくほくしている向きもありますが、絵が上手いだけや、音楽が上手いだけでは、プロフェッショナルにはなれても、アーティストにはなれないというのが、歴史上の巨匠達が口を揃えて言い放った芸術家の変わらぬテーゼです。
「アートは作品ではない、人間そのものだ。人間の生き方の創造である。」
と。このテーゼは21世紀も変わる事なく生き続ける事でしょう。なぜなら生き方を取りざたされずに作品だけが一人歩きした芸術家など、芸術家が芸術家と呼ばれて以来一人もいないからです。そう、アーティストとは、職業の呼称ではありません。尊称でもありません。生き方の創造宣言なのです。

単なる宣言。
しかして、大いなる決意。

そこから導きだされるものは、生き方が凡庸であったり、何かに追従するものではあってはならないという事です。新しいもの、進化したもの。だから、前提として、平穏な人生はあり得ない訳です。誰も歩いた事のない道だからです。常に試行錯誤や失敗、恥辱や抵抗、逆風、そういうものと隣り合わせでいる。平穏な日々から生まれる「生き方の創造」というものはあり得ない。そういうものなら、みんなやってるからです。
絵を描く事がアートではない。音楽を奏でる事がアートではない。もっとも、それで作品を何も生み出す必要がないということではありません。やはり作品は必要なのです。作品から生き方、生き様を逆引きできるようでなければならない。
過去、誰もが認める芸術家達が目指したものは、「人間は全能でなければならない」というテーマでした。全能になれないとしても、少なくとも全能を目指してもがいて泥だらけになっている人間そのものでなければならないと、彼らは異口同音に主張しています。
生きるという行為を、孤独と共に決意し、全能に向けて一心不乱にもがき苦しむのだ、嵐の中を突き進むのだと覚悟することが、アートであるとも言えます。そして20世紀、アートは哲学までに昇華を遂げました。機械文明に対する人間回帰は、表層の生き方の規範という部分では大成功を収めたのです。そしてそれは機械を取り込んだ。それはリテラシーの高い者にとっては、強い味方となりました。強さを持って雄々しく生きるための協力者となったのです。

しかして、それらの芸術が成し遂げていないものがあります。それは、残された人々のための生き方です。すなわち先人達のアートに関する偉大なる成果の上に立って言えば…


来るべき芸術とは、全ての人が絶望から這い上がり希望に溢れて生きるための、魂の高次進化(アセンション)を目指す創造運動とその成果物であり宣言である。」

ということができます。


私は「絶望」という言葉を入れました。自分でもどうしてそう入れたのか分かりません。しかし私たちは絶望から這い上がる必要性があるように思えてならないのです。その絶望は、早いか遅いかの違いこそあれ、全ての人にやってくるものです。しかしその絶望は絶望のままではない。神からの未来の保証がある絶望である。だから正確には絶望とは言わないのかもしれません。必ず希望へと変わる何か。凹み。その絶望を既に味わった人は幸いです。既に希望へとシフトできる準備が整ったからです。
もう一つは魂の高次進化です。今流行のアセンションというやつです。このアセンションの意味、解釈は様々に取りざたされていますが、私はやはりそれは魂の進化だと考えています。人間は進化する動物であると考えています。その進化は、もはや魂以外には残されていない。人間の進化は最終段階に来ているのです。それが、美と共にやってくるのです。本当の美とは何か。全ての常識が変わります。



長々と書いてしまいました。これは無論、まだ思考の途上です。直感的思考の。何かの叩き台になるかもしれませんし、考えが変わるかもしれません。言葉足らずのところは、順次推敲して直してゆくつもりです。




来るべきアート(1)

「なぜ絵を描くのか?」
私の場合は、描かずにはいられないからです。衝動でもあり、自分の本能の中でもっとも強いものの一つであり、直感、無我、霊感を表現する、もっとも自由な表現方法だと思っています。そして何よりも一生を通じて自分が自ら進んで行う行為の重要な根幹です。小さな頃から、ふと気がつけば紙に鉛筆で夢中で絵を描いていました。それは親に半ば強制的に始めさせられた音楽よりもずっとその動機が強いものでした。




「絵は最初からうまかったのか?」
最初から下手で、今も下手です。掛け値なしに。子供の頃、絵を褒められた事はなく、いつも周囲の子がアニメのヒーローやメカを上手に描けるのが羨ましかったのを覚えています。どうして自分はあのように描けないのだろうと。自分にはセンスがないのだと悔しかったです。




「ではどうして絵を描くようになったか?」
小学校に入ったばかりの時、風邪か何かで1週間ほど学校を休んだことがありました。休み中に他の子はデザインの授業でデザインなるものを描いていたようで、休み明け、先生が私だけ居残りさせて、「デザイン」を描いてごらんと、色画用紙とクレヨンを渡しました。私は訳もわからずに、大好きだったジドウシャをたくさん並べて描いた。それが校内の何かで金賞をもらったのです。それまで誰にも褒められた事がなかったので、それは嬉しい出来事でした。訳も分からずというのがポイントでした。その時に、自分はもっと絵を描きたい、上手くなりたいと思い始めたのです。自発的に画塾に行きたいと親に頼んで行かせてもらいました。ところが、やはり一向に絵は上手くならない。誰も褒めてくれない。そんなある日、もう絵がイヤになりかかっていた頃、何も考えずに適当に描いた鉛筆の下書き、それは急須と何か静物だったと思います、それを画塾の先生が感激して褒めて下さったのです。そしてそのデッサンを譲ってくれとまで言われたのです。もちろん譲れば再度描き直しになります。気を良くした私は2枚目も得意気に先生に見せました。ところが先生はそれには目もくれなかったのです。とてもがっかりしました。持ち上げられて、落とされる。
その瞬間、上手く描こうとする絵というのは、実は上手いのではないと気づいてしまった。自分は上手い絵を描いてもだめなんだ。他の子が線を上手に引けたり、整った何かを記号の様に描くという行為と、自分のいつも大雑把で整わないデッサンとは、本質的に何かが違う、他の子のそれも自分のそれもあっていいが、行く道はそれぞれどうも違うようだと子供の時分でそれに気づけたというのは幸運だったと言えます。「気づいた」と自発的に言っていますが、実際のところは画塾の先生の率直な感想と、薫陶と、空から降って心に湧いて来るものに導かれていました。それからは「上手く描こう」とするのをやめる努力をするようになり、印象派の様な絵ばかり描くようになっていました。その分、輪郭とかデッサンというものは2の次3の次のままでした。実際、上手く描こうとすると絵は死んでしまいます。絵は、本能なんです。直感なんです。本能と直感でないと描けない。




「デッサン力は重要ではないか?」
鑑賞者側に立って言えば、そんなものは必要ないと思います。一生のうちに数点だけの制作しか残さないというのであれば、それもそう。しかし欲張りにたくさん制作して、その芸術性をより高めて行くには、やはりデッサンを学ぶ事は重要だと思います。私自身もずっとコンプレックスに思い、克服しようとそれなりに努力してきました。
もちろんデッサン力がなくても素晴らしい絵は描ける。けれども、やはり偶発的面白さだけで終わってしまう。絵、芸術の面白さの多くはその偶発的面白さなんだけれど、偶発的面白さで描ける絵というのは、子供なら何枚でも描けるけれど、大人には邪心がいっぱいあるのでそうそうは描けない。子供の絵には邪心がないので、物凄い訴求力と面白さがある。ところが大人が描いた絵は邪心があって、訴求力にも邪心が見える。邪心というのは、こういう意図を伝えてやろうとか、驚かせてやろうとか、上手く描こう上手く描こうという心。そういう邪心は大人だからしょうがない。でもそれを消してしまわないと、本当には自分も世界も感動できない。芸術は感動できないと面白くない。
大人になって、そんな邪心なしに描ける絵は、1年にせいぜい1枚か2枚だと思う。30年描き続けたとすれば、30枚、それでも十分に素晴らしい芸術家だと思います。でもそこまで描き続けたらもっと欲張りに描きたいと必ず思うようになります。高まって行きたいと思う。そう思えば、意図、思考、技能を全て分かりつつ否定してかつ到達できる世界というのがあって、それはやはりデッサンをある程度はかじっていかないと見えてこない。
すなわち邪心を消すには、逆説的にデッサンの素養がどうしても必要なんです。一度デッサンを身につける。そしてそれを壊す。その作業があるのとないのとでは、どんなにデッサンや写実性、技巧性と無縁の作品であっても、やはりその訴求力、芸術性は全然違う。これは一見矛盾するように思えますが、不思議な真実です。例えばピカソにしても、デッサン力は神がかっていましたが、結局それを全て捨て去って初めて彼の芸術が生まれました。彼にデッサン力がなかったら、おそらく彼のあのような芸術は生まれなかったと思います。試しに、ピカソの様な絵を描いてご覧なさい。「あんなもの自分にでも描ける」と豪語した人のほとんどは、あれほどの構成を逆立ちしても作れないのです。彼のあの一見意味の分からない造形には、彼のデッサン力の賜物がたくさん隠されています。
しかしデッサン力があれば全てが事足りるということではありません。デッサンなんかよりもずっと重要なことが他にもたくさんあります。デッサンを難なくこなしてしまう人の中には、デッサンを過大に重要視する傾向が見えることがありますが、あまりそこに終始すると、やっぱりつまらないものしか描けなくなる。デッサン力は身に着けて後壊す、その勇気が何よりも大切だと考えています。




「デッサン力はどうやって身につけるのか?」
デッサンというのは、デッサン力の高い絵を見たり、同じ様に描く事でしか到達できないことは確かですが、実は理屈がちゃんとあって、その理屈を最初に学ぶ事です。そのもっとも重要なものは遠近法です。
私がデッサンというものを本当の意味で勉強し始めたのは大学受験から大学生にかけてです。美術を学ぶ学生ならみんなが通る、石膏像の木炭デッサンです。でも、それで実はデッサン力はまるっきりつかなかった。やはり周囲の「形の輪郭をとるのが上手い」同級生達に太刀打ちできるようなものは何も身に付かなかったのです。それは理屈を教えてもらえなかったからです。遠くのものが小さく見えると言う事ぐらいは分かる。しかし遠近法の理屈はそれだけではない。理屈が分かったら今度はとにかく描いてそれを確認する必要がある。
私の専攻は工業デザインでしたから、デッサン力のなかなか身に付かない私にとって、レンダリングという究極のデッサン力を要求される絵を描かなければならない日々は、致命的な屈辱を味わう日々でした。その上レンダリングで多用されるパステルという画材が、実に相性の悪いものでした。それでその頃、初歩的な線が描けて陰線処理計算ができるCADが普及し始めた初期のパソコンに触れ、実はレンダリングというのは、コンピュータでもできるのではないか?と思い始めました。落ちこぼれは常に新しく楽ができる事を考えるものです。そうして1990年前後に出始めの3DCG(コンピュータグラフィック)ソフトウェアをMacと共に導入し、手描きレンダリングを一切せずにデザインの仕事を始めました。工業デザイン分野でフルCGをレンダリングの道具にしたのは、日本でもかなり最初の方だったと思います。
ところが皮肉なことに、そうやって3DCGでレンダリングを描くようになってから、メキメキと自分のデッサン力が上がって来るのが分かりました。3DCGによるモデリング、レンダリングの設定は、完璧な遠近法の鑑賞と構成の機会を私に与えてくれ、加えて立体認識や輪郭の把握力というものも授けてくれました。今まで自分が描けなかったものが、Macで描けるようになった時、同時に手描きでも同じ様に描けるようになっていたのです(ある程度ね)。これは本当に喜びでした。そして面白いことに、それからは逆に3DCGから離れていったのです。




「色彩とは何か」
人の顔を肌色に塗るという事でないことだけは確かです。色彩は常識や先入観の破壊です。そして破壊ができて初めて、真実の色が見えて来るのです。だからといって単純に、じゃあ顔を青く塗ってやれというのではありません。そこには驚かせてやれとか、上手くやろうとか、奇をてらうとか、そういう意図があってはならない、あくまでも真実の色というものが必要なのです。無になり真実を見る目。それが色彩だと考えています。
もう一つ重要なこととして、色彩は人の氣、場所の氣に大きな影響を与えるという点です。色の持つパワーを良く分かることは、私の制作にとってはとても重要なことです。




「どんな芸術(アート)を目指しているのか?」
誰よりも何よりも、自分が感動したり面白いと思うもの。でもそれは「面白いものを描いてやろう」とか「感動できるものを描いてやろう」としても描けない。何か指針を置いて、その中で自分の本能、直感を自由に泳がせる必要がある。
芸術というのは人間の自然の本能で、理屈で「これが芸術だ!」とやることはナンセンスです。が、先にも描いたように本当の本能、才能、直感だけで作れる作品というのには限りがある。誰でも自分の能力を限りないものとして人類に貢献したい。そうするためには、やはり作り手側には高い理念と厳しい自己規制、コンセプト、鍛錬、試行錯誤、人生の投影と提案がなければらないと考えます。
同時に、鑑賞者はそれを芸術と見ようが娯楽と見ようが、はたまた路傍の石や雑草と同じに見ようが自由です。もちろん、芸術を理解する力というものがあれば、人生はより豊かで哲学的になるでしょうけれど、あまり大上段に構えても芸術は面白くもなんともない。けれども、作り手側にはかなり強い自己規制が必要という、ちょっと矛盾した世界がある。
だから、「芸術(アート)とはなにか」「芸術家(アーティスト)とはなにか」「どうあるべきか」ということは、すっかり決めてしまってはつまらないけれども、それを大いに論じる事、言い放つ事はとても重要でステキな事だと思います。
だからこそ多くの偉大な先人達が様々な解釈、持論を持って取り組み、一定の、誰もが納得できる答えを出してきているわけです。


そんな訳で、ことさらここで私が「アートとは何か」などと新たに何かを構えなくてもいいようにはなっているのですが、しかしやはり今再び「芸術とは何か?」という問いを、もう一度投げかける必要がある時代にさしかかっているのではないかと、直感的に感じています。
直感とはたいていの場合、論理の飛躍を起こしているので、言葉にすると意味不明瞭になりがちで、一言で済む様な話にはなりません。しかしその飛躍を恐れずに言えば、次の様な前提条件が言えます。


1)20世紀の先人達が到達した芸術の目標や意義はある程度達成された。
2)その延長で今後も芸術運動を続ける事は無意味になりつつある。
3)それを超えるさらに大きな潮流が求められている。


(続く)